活気に満ちた討論が、私たちの時代の大きな問題との関係から分かち合いの意味について問い始めています。STIR magazineに最近掲載されたアーティクルのなかでSTWRは、この出現する経済の概念が単なる個人的、消費者主導型または商業化された協力形態に恩義を受けるべきでなく、国内および国際レベルでの政府の政策に、最終的に反映されねばならないことの正当性を議論します。
ビジネス・コミュニティは、ブランド・アイデンティティの一部として分かち合いを支持する大企業のプレーヤーの莫大な市場の規模および収益性について熱狂しているかもしれませんが、分かち合いの経済が未来を見通したレトリックと熱望に応えていると皆が納得しているわけではありません。共同体主義的価値観を促進することや過剰消費の解決策を提供すること、あるいは社会的公平性を拡大することなどからは程遠く、例えば:労働組合化された労働を弱体化させ、不公平な戦争から利益を上げ、雇用の規制緩和および不安定性を奨励させるだけでなく、絶対必要な公的資金を都市部から奪うことによるなど − 分かち合い主導型ピジネスモデルが私たちを反対方向に押しやっていると、ますます多くの批評家が証言しています。これらの新しいビジネス投機がサービス料金を設定し、技術や資産を実際上は貸していることを考慮すると、それがコミュニティ基盤の分かち合いの元来の概念化を吸収するかあるいは退廃させているのではないかと、多くの人が疑問を投げかけています。従って、分かち合いの経済は本当のところ「死に値する意味のない言葉 」なのか、あるいはこの誇張活動が、私たちの時代の大問題に関係して実際に分かち合いがなにを意味するのかについて考えるために一時停止すべき理由を、私たちに与えてくれるのでしょうか。
すべてを商業化するプロセスを押し戻す
分かち合いの経済の主要な批評は、分かち合いが商業化されるべきかあるいはされ得るのかということに関係しています。営利目的のエンタープライズの基本的ダイナミックスは、優勢的な企業部門においてもインターネットによって機能できる分かち合いの経済においてもなんら違いのない、以前は非経済的だった生活領域を市場化することです。従って、これらの新しい技術の立ち上げが代表するこの手の「途絶」が社会経済問題の解決策を本当に提供しているのか、それともむしろ「すべてを商業化する」悪質なトレンドを深めているのかという疑問を多くの革新家がなげかけています。例えば、(Airbnbで)アパートを賃貸すること、(ReFashionerで)デザイナーの服を交換すること、または(campinmygardenで)あなたの庭を貸し出すことは、使用しない資産から価値を引き出す方法であるのか、それともそれは事業が私たちを自己本位な消費者にして私たちから商業的に搾取するためのより効果的な方法なのでしょうか?私たちの技術、個人的所有物やコミュニティ活動を収益化することによって、市場および非市場の世界の間のラインはますます曖昧になり混じり合い始めています。そしてその場合、議論の余地はあるにしても、共同消費および営利目的の分かち合いは、消費者の資本主義的社会の価値観を強化しています。少なくとも、商業的分かち合いのプラットフォームは、それが、経済的に参加できるより裕福な消費者のみを対象とするなら完全に包括的ではあり得ないのです。
これは勿論、白黒のはっきりした論議ではありません。なぜなら、ビジネスおよび商業の世界においても意味ある人間関係が依然として形成され得ること、そして、共同消費には明らかな社会的利益があり、不必要または十分に使われていない物資やいわゆる「非生産資産」を利用した投機から得られるべき価値のある経済的利益は明確だからです。しかし、人々が相互依存の行為を通してお互いの繁栄および福利に貢献することを可能にするコア経済と、TimeBankingムーブメントの創設者エドガー・カーンが称する − 多くの場合どのように真の「分かち合い」の経済が自由で非商業的であり、そして人間として私たちを結ぶ無償の世話、サポートおよび養育を常に含んできたかを一般的な経験が証明しています。この展望から、個人間の分かち合いの革新的な社会力は、より形式化された制度、新技術または誰でもアクセスできる非形式なネットワークの拡大にあります。そのような例は、コミュニティの公園、衣服および本の交換、the Really Really Free Markets、無料ソフトウエア・プロジェクト、[1]そしてギフト交換や技術やサポートを共同出資する集団努力に基付いた他の無数のソーシャル・ネットワークを含むでしょう。チャールズ・アインスタインまたは ‘Moneyless Man(「無一文の男」マーク・ボイルなどの執筆者が証言するように、ギフトや分かち合いの精神を持って生活することは、定量化不可能な利益があります:それは、人間関係を市場から取り戻すこと、第一の利益目標のためにすべてが存在するところの商品の世界に反対する立場をとること、そして単なる消費者とは逆に、相互依存する創造的で歓喜ある人間としての私たちの集団的アイデンティティを再確認することを意味します。
分かち合いの原理と同調したビジネス・モデル
お金が関与しない分かち合いの活動は、物理的な相互作用と身近であることが必要な地域レベルに主に適していることから、分かち合いの経済のなかには企業家精神と商業の居場所がないと議論しているのではありません。(その殆どが強い社会的側面を誇る)多くの洗練された商業的な分かち合いプラットフォームの拡大する成功はまた、何百万人もの人々が共同の分かち合い活動に参加することを選んでいることをも示唆しており、そしてより大きな割合の経済活動を分かち合い志向の新たなビジネスの立ち上げが占めるよう設定されています。問題は、もし彼らが分かち合いの理論と実践に真に同調し続けることを望むなら、どのような種類のビジネス・モデルをこれらの事業が取り入れるのかということです。ベンチャーキャピタルが将来性のある分かち合いの経済の立ち上げになだれ込んでおり、収益成長、株主価値の最大化および市場の独占化のために存在する大企業へとそれを変えており − 真に分かち合うもっと公平で公正な社会へとそれが私たちを近付けることをできなくしているという批判が既に溢れています。これらの方向性に沿って分かち合いの経済を営む人々が、それが生み出す富を分かち合っていないことを誰が拒むことができるでしょうか。
大部分が画一主義的で非情なほど利益追求型の企業によってもたらされた多くの収束する危機のこの時代において、分かち合いの原理に同調した新ビジネス所有モデルを革新家がますます要求しています。これは、自己利益のために会社を経営する個人や団体が皆無で、経済的再分配がビジネス構造に組み込まれているところの生活協同組合の観点から最もしばしば話し合われています。カリフォルニアの「分かち合う弁護士」ジャネル・オルシは、分かち合いの経済の企業を生活協同組合に変換することの著名な提唱者であり、これらふたつのコンセプトが同意語として考えられるべきだとさえ主張しています。しかし、(マルジョリー・ケリーの言葉では)「出現する所有権の革命」を反映し、そして、コミュニティ土地信託、コミュニティに支えられた農業、クレジット・ユニオンおよび地方のコミュニティ銀行はもとより、異なった形態の非営利事業など、本質的に公平で生態学的に持続可能な成果を促進する原理を固守した他の多くのビジネス・モデルがあります。
政府による分かち合いの制度化
もしこの真の分かち合いの経済が事業の吸収に抵抗し、経済成長および利益への必要性の代わりに公益を具現化するつもりなら、それはあまりに広範囲に渡る公衆の後援を必要とするため、国家政策および規制を通して最終的にその拡大に政府が専心するでしょう。そして、表面的にはこのプロセスが進んでいるという見込みのある兆候が見えます:アメリカ全土から15人の市長が現在、地方自治体をShareable Cities(分かち合える都市)として正式に宣言しており、分かち合いの経済への参加を妨げる可能性のある規制を再検討し取り組むことを誓いました。韓国ソウルはまた、分かち合いの経済の立ち上げを計画する、市によって融資されるSharing Cityというプロジェクトを導入し、そのかたわら、エクアドルエクアドルとアムステルダムもまた、新技術に促進される分かち合い文化を取り入れています。
しかし、経済的分かち合いのコンセプト自体は、消費者主導型、ピアツーピアまたはインターネットを介した協力形態の恩義を受けておらず、それはまた政府の政策にも反映されねばなりません − 特にもし、気候変動および持続不可能な食糧システムのような全体におよぶ長期的問題や不平等がいずれ取り組まれるべきならです。The RSAのジョナサン・シフェレスを引用すると、「公共サービスの社会組織を通しての共同消費」を実践するところの経済的分かち合いの最も基本的表現として、政府は理解され得ます。この意味で、真に分かち合う社会は、普遍的社会保護システムによって支えられ、そして、例えば、医療、教育および光熱水供給など一定のセクターからの利益を最大化する企業の削除を余儀なくさせるだろう、厳格に規制された市場と政府の強い介入主義的役割を必要とします。社会全体でどのようにパワーが平等に分配されるかという観点から、分かち合いのコンセプトもまた、ガバナンスの民主的形態に当てはまりますが、それは、参加型政治にとって劇的な重要性を持つ可能性があります。事実、富および収入のより公平な分配を促進できる地価税や他の租税改革から、共通財産の囲い込みや民営化よりむしろその拡張を支援できる法律および規制までの、国家レベルで分かち合いの原理と同調する経済および社会政策の種類の長いリストができます。
しかしながら最終的に経済的分かち合いの真の可能性は、すべての国の利益のために協力的に振る舞う政府が分かち合いを世界的基盤で制度化する時にのみ目撃されるでしょう。相互連結および相互依存する経済の世界において、国内および国家間双方での富と収入のより公平な分配なくしては、現在と未来の世代の持続可能性、平和および安全性は保証できないでしょう − それは、地方の分かち合いムーブメントにおいてますます多くの人々が気が付き始めていることです。共同理念および社会的結束が、最終的に世界資源を分かち合うためのグローバル・コールに変換される時、究極のSharing Springを私たちは遂に目撃するかもしれません。
このアーティクルは元来、「分かち合いは経済か?」というタイトルのSTIR magazineの2014年春の号に掲載されました。
[1] この非商業化されたコンピューターの使用の例の出処はオープンソースプロジェクトでしたが、その後、フリーソフトウェア・ムーブメントのリチャード・ストールマンとのコミュニケーションで指摘されたように、オープンソースは無料ソフトウェアとは反対に、その商業的搾取を禁じることのできる倫理および価値観に必ずしも関連していません。詳細は次を参照: Why Open Source misses the point of Free Software, published at gnu.org
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