• English
  • 日本語
  • France
  • Deutschland
  • Italy
  • España
  • Slovenia

商業化:分かち合いの対極

Mohammed Sofiane Mesbahi
2014年4月3日

今日の世界で最大の危険は、商業化自体にあるのではなく、人類の叡智が自然や霊的進化とは逆方向に導かれるところの、その内外の表れへの私たちの絶え間ない自己投影なのです。


「分かち合いは、世界の問題を解決するための鍵です」。このような発言は、余りに単純すぎてアピールに欠けるかもしれません。ですから、これが何を意味するのか理解したいなら、この主題をさらに掘り下げていく必要があります。分かち合いが正義、平和、正しい人間関係への最も確かな導き手であることを理解するために、私たちはその意味と重要性を、心理的及び霊的、さらには社会的、経済的、政治的な観点など多くの角度から突き詰めていく必要があります。分かち合いに関しては無数の考え方があります。なぜなら、この原理の性質は「生命の法則」の中のパワーハウスであり、そしてその驚くべき多面性を誰もが直感し体験することができるからです。しかし、地球の断続的な進化に分かち合いがそれ程重要であることが真実なら、まず考察すべき第一の問題は、なぜこの原理が私たちの文明の危機に対する答えとして理解されていないのかということです。

私たちの社会で、分かち合いがどのように蝕まれてきたかを知る一つの方法は、商業化が私たちの意識内でどのようにますます構造化されてきたかを詳しく考察することです。分かち合いが病める世界の解決策であると言うことは簡単ですが、商業化が私たちの進化を掴んだ手をどのように刻々と締め付けているかについても考えない限り、この主張も単なる一つの高尚な信条として終わるだけです。人類の問題を解決するための鍵を見つけるためにはまた、どのようにして、そしてなぜ、私たちは政治家の権威に自分たちの社会的及び経済的取り決め、教育、そして日常生活を支配させているのかを自問せねばなりません。最も大切なことは、私たちは、内省と内なる認識を通して、自分たちの自己満足的な無頓着さと間違った教育が、どのように他者の苦しみに対する集団的無関心をもたらしたのかをも、検討する必要があります。

誰もが家族やコミュニティ内で分かち合うように、私たちは皆、個人レベルで分かち合いが意味することを理解しています。それではなぜ、国家レベル、そして世界レベルで分かち合いの原理を実現する必要性をほとんどの人が理解していないのでしょうか。この疑問に対する答えの大部分は簡単に説明できます:それは、市場勢力が好き放題できるように、私たちの社会の基盤が構築されてきたからです。私たちは、利益と商業化に向けられた複雑な政治的及び経済的システムをますます発展させてきました - 税制、大企業、私益を守るために生み出された無数の法的規制。これらすべてが高度に複雑で分裂した社会をつくります。つまるところ、システムを理解する人は誰もいないのですが、システムはそれ自体の目的のためにどのように私たちを誤魔化すか正確にわかっています。そして、そのような複雑な社会では、商業化を促進するためにつくられた非常に多くの法律と政策のために、分かち合いの原理は殆ど存在しないに等しいのです。

私たちが利益と商業化に駆り立てられた社会に住む限り、分かち合いの原理は常に衰退させられるでしょう。人間活動のあらゆる領域に商業化が入り込むとき、分かち合いが阻害されるのが観察できます。同じ現実が環境にも当てはまります:商業化が入り込むとき、自然が破壊されます。実に、商業化が入り込むとき、それは非常に侵略的かつ破壊的であるため、家族をもばらばらにします。多くの自由貿易協定とヨーロッパの経済統合で見られたように、それは伝統と国家のアイデンティティをばらばらにします。商業化勢力が解き放たれているところではどこでも、広がる貧富の差と霊的混乱が伝染し、最終的には人間に神から与えられた叡智が社会の進歩及び進化とは逆方向へと転換させられてしまうのです。

私たちは、商業自体について話しているのではなく、市場勢力の解放に伴う貪欲と利己主義、そしてその結果もたらされる自己満足的な無頓着さと無関心について話しています。商業に携わっている人々にだけこれが該当するということではありません。これは私たち全員に当てはまるのです。なぜなら、私たちは全員、市場勢力が隅々まで浸透した世界に住んでいるからです。危険なのは、経済現象としての商業化プロセス自体ですらなく、むしろその内外の具現に対する私たちの絶えまない自己投影なのです。

心理学的に商業化を理解または定義しようとしても無駄です。その過程を支える有害な勢力を辞書上の定義から理解することができないからです。単なる売り買いとしての商業に対する旧来の理解は殆ど失われています。なぜなら、ある視点から見ると、市場勢力は病気のように私たちの細胞に浸透し、商業化という名の沈黙の殺人者と化してしまっているからです。それは、私たちの一部となり、私たちの中に生きています。商業化は、私たちが私たちと地球との関係の中に、そして私たちのお互いとの関係の中に築いてきたシステムであり、社会における人々の動きと生活に内在しています。もちろん、国内または国家間での物資とサービスの秩序立った交換には根本的に何も問題はありません。しかし、ナイフが野菜を切るのに使用されることができると同時に人を殺めるのに使用されることができるように、商業も善悪両方の目的のために使用することができるのです。

したがって私たちの探究は、商業化が私たち全員の単純な共通のニーズを満たすことから、私たちの創造性を間違った方向に導き、無分別な利益の追求と底知れぬ消費へと私たちの動機をいかに歪めてきたかに関係しています。社会と環境が被っている商業化の害のすべてにも関わらず、私たちはなぜその破壊的力を認識できず、さらにそれを制御できないのでしょうか。この問いにもまた簡単に応えることができます。それは、私たち全員が幸福を求めているからです。商業化は私たちに幸せ、「良い人生」、より快適な生活と安定性を約束することにおいてとても巧みだからです。私たちは皆、安定性を求めていますが、私たちは偽りの安定性を売りつけられているのです - それは危険なファンタジーです。

食べものや住居のために家族が必要とする経済的安定のような、単に物質的な意味だけでの安定性そのものについて話しているのではありません。ここでの私たちのより深い懸念は、最終的にお互いからより孤立するよう私たちを追い込み、本質的に私たちの叡智と自由を否定する心理的安全の追求です。それは、私たちが幸せと呼んでいる個人的妄想の絶え間ない追求へと私たちを駆り立てる心理的安全への必要性です。そして商業化勢力は、真の充実感や歓喜を見いだすことのできる唯一の場所である内なる自己の認識からハートを惑わすことによって、私たちに幸福を提供することにおける専門家なのです。

高度に商業化された不平等な社会状況の中での幸福は、私たちが執着する最も醜い社会的ファンタジーの一つです。なぜなら、そのような社会での幸福は、惨めさと哀しみの隣り合わせになることでしか存在できないからです。流し台のように、それには常に二つの蛇口が付いています:水とお湯です。機能不全社会においては幸せと惨めさの共存を避けることはできません。幻想的形態の幸せを切望するプロセスの中に私たちが感情的に捉われ、自己に没頭し、人生が模倣的になり創造性を失うとき、その切望もまた、危険なものになり得るのです。そうこうしているうちに、恵まれない人々への愛と共感という私たちに生来備わった性質も、自己満足的な無頓着さ、無関心、そして恐怖心に乗っ取られてしまうかもしれないのです。これは、私たちに重要な疑問を投げかけます:恐怖と個人的幸福の追求との間にある関係は何でしょうか?

恐れずに自己の内面を見つめる能力は、商業化勢力によって迅速に奪い取られます。最も親密で個人的な関係の中においてさえ、幸せと安全性に対する絶え間ない追求の結果として、私たちは恐怖の中で生きています。これが、商業化が私たちのマインドに侵入し、心理的に私たちを操作する方法です。それは、私たちが感情的執着を超えたところで思考することができなくなるように、物や所有物に対する無限の欲望を生み出し意識を制限します。そして商業化は、最新の流行のものやハイテク製品のために一晩中列をなして並ぶようになるまで私たちの品位を貶め、買いものが私たちの信仰だと考えるか、あるいは「一つ買って一つただでゲットする」ことが最も意味のある常識だと考えるようになるまで、私たちをトランス状態へと陥れる力があるのです。商業化は、結婚を考えている相手を見て、「彼(彼女)は容姿は良いが、お金はあるのか?」などと人に思わせることができるのです。あるいは同級生の真似をしたり、常に変わり続けるファッションを身にまとい、高価な「格好」を誇示し、彼らみたいになりたいと熱望するようにティーンエイジャーを誘導することができるのです。幼い子供たちを洗脳すること、そして教育の本当の意味を歪めることは商業化にとって容易いことなのです。教育の真の意味は、追従、比較、競争ではなく内なる自由と自己知に関係しています。商業化は私たちをつまらぬ存在に仕立て上げ、怖がりにし、私たちの謙虚さを低下させ、私たちはそのことに気付いてさえいないのです。商業化勢力はこのような条件付けと恐怖を私たちの頭に植え付けてきたため、分かち合いの簡素なやり方などにはもはや魅力を感じられるはずがなく、結果的にそれは最悪な形の精神的盲目をもたらします。

商業化によって私たちの意識に構造化された基本的な心理的動機を観察してください:さまざまな人々を絶えず秤にかけ比較すること、そして成功に対する本能的崇拝など。「成功」して「偉い人」になりたいという欲望。そして、いつの日か、鏡の中の自分たちに向かって「やった、成功したぞ」と言わせるために、成功と業績への同じようなむやみな賞賛が子供たちの中に、ごく幼い頃から植え付けられます。芸術家でさえ「ついに達成したぞ」と言うために、あるいは他人から「あの人を知っている?彼は本当に沢山のことを達成したのよ」と言われることを欲して大変な努力を惜しみません。しかし、私たちが他者との関係の中で自分自身を定義するとき、そして、自分たちが持っていないものを持っている人々と、自己を常に比較し秤にかけるとき、霊的可能性と正しい人間関係の表現を妨げる奇妙な劣等感をつくり出すことになるのです。このような心の傾向は商業化にとってもってこいなのです。なぜなら、成功と業績への絶えまない崇拝を通して、私たちは生活のあらゆる分野で、つまり、学校、職場、家庭、そして夢の中でさえ、利益と物質勢力を維持し続けているからです。

今、有名人または億万長者があなたのいる部屋へ連れて来られたと想像してみてください。そしてその人に対する私たちの態度が通常と比べてどれだけ大きく違うかを。なぜなら、私たちも、「成功したら偉い人になるのだ」と考えるよう条件付けられているからです。私たちは皆、「偉い人(成功者)」の権威に対して内面で頭をさげるよう社会的条件付けによって駆り立てられているのです。それが、根本的に商業化がどのようにして人々を機械化するかということです。その第一の使命は、成功こそが道であると私たちを信じ込ませることです。しかし、成功するには達成に向かって一生懸命努力しなければならない、やり遂げなければならないと私たちは言い聞かされるのです。そして、達成するには皆と競争しなければならないことを私たちは知ります。つまり「勝利者」とならねばならないのです。私たちの生来の自由と創造力が失われるまで、イデオロギーと信条に追従し自己満足的で無頓着になるまで、時間はそれ程かからないのです。

これは、成功と達成を崇拝することの必然的結果です:他人の苦しみに対する自己満足的な無頓着さと無関心。これが、社会の中での個人的達成に対する執念の働きです。それは無関心を育みます。それはあまりに強力で、道徳的に高潔で分別があると私たちが考える立派な市民のような、高学歴の人でさえも、「常に飢えは存在してきたし、常に存在するだろう」などと何気なしに言うのです。

さらに、この不幸な惑星をみて、「どうにかしたいが、とても無力に感じる」と言う人に商業化が及ぼす不透明な感情的効果をみて取れるのは奇妙です。もちろん、世界の苦しみを和らげる手助けをするためにできることは何でもあるのですが、主に商業化勢力が私たちを圧倒し、分裂させ、無力に感じさせているのです。人間の生活のあらゆる分野で市場勢力を解き放つことは、徐々に私たちの慈悲心を取り去り、善意を取り去り、認識を取り去り、そして常識を取り去ることなのです。これらの同じ勢力が、ここ数十年にわたって全力を尽くし分かち合いの原理を苦しめてきました。それは、捉えどころのない巧妙な方法で拡大しているため、自己満足的で無頓着でいることが現在当たり前になっているのです。

したがって、商業化が人類の進化にとっての鬼門、あるいは社会のすべてのレベルと側面を徐々に氾濫させていく目に見えない津波のようなものだと言っても過言ではありません。悪魔を信じる人は誰でも、そのようなものが存在するとしたら、それが誰で何なのかということを改めて考え直すべきでしょう。つまるところ、私たちがそうすることを自由に選んだ、悪への自己投影なくして、悪とは一体何でしょうか?私たちの自己満足的な無頓着さと間違った教育が、分かち合いを極小の釘にする一方で、商業化を強力な金槌に変えたのです - つまり、世界の他の地域で人が餓死するのを知りながらも、そのために何もしないことが私たちの生き方なのです。

それは、私たちの自己満足的な無頓着さと無関心が許される言い訳にはなりません。私たちの自己満足的な無頓着さは裁判所へ引き出され、私たち全員が人道に対する罪で裁かれるべきです。私たちはハーグ国際司法裁判所の外で地球規模の列を作って並ぶべきです。なぜなら、私たち全員が共犯だからです。地球が略奪され破壊されているあいだ、集合的な無頓着さと無関心を通して私たちは沈黙してきました。そして、私たちの兄弟姉妹が貧困の中で死んでいくあいだ、私たちは顔を背けてきました。最終的に、地球を汚した人々とそれをやめさせるために何もしなかった人々は同じです。なぜなら、一方はもう一方なしで存在できないからです。顔を背ける人々はさらに罪が重いとさえ言えるでしょう。なぜなら、世界の資源を貯め込み、地球を破壊している人々は、もう一方の自己満足的な無頓着さに完全に依存しているからです - そうでない限り、それは起こり得ないでしょう。

真実は、商業化は沈黙の戦火であり、人類の成長と進化に対する戦争にほかなりません。この発言は、これ以上強調することはできません:商業化は戦争なのです。異なったサイド同士や競争する国家間、またはライバルの部族間の単なる戦争ではなく、それ自体が戦争なのです。それはすべての世帯、コミュニティ、国の中で仕掛けられている戦争です。なぜなら、商業化は非常に邪悪で知性的であり、人類の弱みを正確に把握しているからです。それは私たちの感情的性質を熟知しています。なぜなら、そこが商業化の潜む場所であり、そこからすべてを操っているからです。そして、そこから私たちの信条やイデオロギーと融合し、さまざまな派閥を育成し、互いに争い合う政党を食い物にして生存します。それは、非常に掴みどころがないため私たちの信条や主義などの株式を買うことができ、そこがそれの育つための投資場所なのです。

隠された現実は、数十年の間、新たなアウシュヴィッツが徐々に構築されてきたということですが、今回は、人類を商業化勢力への全面的降伏へ追いやるという異なった形においてです。今日の世界大戦は、戦車と銃の形で繰り広げられているだけでなく、世界のすべての国に徐々に影を落としてきた市場勢力の信仰に隠されている破壊の中でも起こっているのです。すでに毎日起こっている貧困関連の原因による何万人もの不必要な死が、アウシュヴィッツに相当するものであることを誰が否定できるでしょうか?さまざまな国で経済状況がさらに悪化すると同時に、世界の株式市場が高騰したあげく崩壊し続けると同時に、商業化勢力は紛争、混乱、そして生命を脅かす極度の不平等をもたらすことにによってますます勝利を収めています。世界規模のアウシュヴィッツが貧困と飢餓を通じてますます膨大な死者数を生み出すことができるまで、少数派の富裕層はさらに豊かになり続け、多数派の貧困層はさらに貧しくなり続けるのです。世界中の善意の人々が無意識にようやくうっすら感じ始めたばかりの沈黙の大戦は、私たちの存在のすべての次元で起こっています。この地球という惑星の緊急事態に私たちがどう対処するかによって、人類の未来の展望が決まるのです。読者は、今ここで述べられたことを各々注意深く考えるよう促されるでしょう。

*

以下のポイントは、蔓延る商業化のベールに包まれ、浸透性が高く、そして人類に対する極度に危険な影響のいくつかを要約したものです:

  • 魂を汚染するマインドの条件付けを維持する
  • どこであろうと人々の中に劣等感を生み出し、それを深め、特定の「成功者」にならなければならないと信じ込ませ、その過程において人生の真の霊的目的を喪失させる
  • 人々のマインドに無意識の、そしてしばしば生涯続く心理的恐怖の感覚を徐々に植え付け、人生の霊的意味への好奇心や開かれた心を阻止し、そして常に自己満足的な無頓着さが維持されるようにする
  • 日常生活の中で、そして生涯を通じて、内なる「自己」と今という瞬間への認識を抑制するために、常に人々の注意を惑わす
  • 個人やグループをあらゆる種類の信条に捉われるように駆り立て、そしてそれらの信条から無数のさまざまな主義が育まれ、永続する
  • 人々が創造的になること、コミュニケーションをとること、社会に貢献することを妨げる
  • 社会福祉制度を弱体化させる
  • 国家と市民の間の分裂を生み、散発的な混乱と暴動の噴出を招く
  • 主義と信条、そして成功と達成の盲信に基づいた現在の教育システムが社会秩序をもたらすという幻想をもたらす
  • 子供たちにストレスを与え、無関心にさせ、自己を見失うよう追い込む
  • 皮肉とお互いへの恐怖心が普通になるまで、社会全体でさまざまな人々の間に不信感を生じさせ、それを維持する
  • 倫理と道徳の文化を、貧困者の面前で富をひけらかす極度に裕福な者の下劣さに置き換える
  • すべての経歴の人々の中に切実な孤独感を作り出す。それは、自分はつまらない無価値の人間だと誰もが感じるよう駆り立てる孤独感である
  • 個人や集団が人生における真の霊的目的をもはや認識できなくなるまで、世界規模の鬱状態を促進する
  • 果てしなく続き、ストレスの多い、そして最終的には人権の暴力的な追求によって、正しい人間関係に対する簡単な理解が置き換えられる高度に複雑な社会を生み出す
  • 世界経済が膝をついて倒れかけているときでさえ、現在の経済システムの無限の成長が必要であるいう信条を強化する(すでに経済的激変、社会的分裂、広範にわたる痛みと苦しみをもたらしている同じシステムである)
  • 環境問題に責任を持って取り組む誰もが、まったく希望が見えないと深刻に懸念するほど酷い地球と空気の破壊の原因となっている

すなわち、商業化とは実に沈黙の戦争なのです。教育の真の意味である「自己知」が絶えず爆撃され続ける戦争です。それは無数の人々を心理的及び物質的貧困へ追いやり、最終的にすべての国家間の本当の戦争へと導く可能性のある戦争なのです。

繰り返します:商業も資本主義も、それら自体が危険なわけではありません。しかし、社会的に分裂的かつ破壊的な方法で、商業化プロセスを維持する成功崇拝の種を蒔くこと自体が危険なのです。また別の言い方をすると、商業化勢力は私たちの成功崇拝を維持し、そして私たちは成功を崇拝することにより商業化勢力を維持します。それは悪循環です。私たちは、成功と達成の追求を維持するために、これらの勢力を生活の中で必要としており、これらの勢力は自己を維持するために私たちを必要としています。そして、商業化パワーを祭り上げるために、私たちが世界中の政治家たちにエネルギーを費やせば費やすほど、政府内で市場勢力信仰の弟子たちがさらに養成されていくのです。

しかし結局、誰も勝利しないのです。人里離れた田舎で静かで平和な生活を送るために街を去ったとしても、それは残りの社会や問題から自己を切り離しているだけです。私たちが一流大学で最高の教育を受けたとしても、卒業した途端、邪悪な勢力が待ち構えているのです。それは、逃げることのできない、偏在する社会的圧力の計り知れない潮流であり、私たちは目に見えない津波の中に沈んでいくしかないのです。市場勢力が横行している限り、人類の意識が利益に駆り立てられている限り、若者が成功と達成を崇拝するよう条件付けられている限り、私たちは決してより良い世界を生み出すことはできないでしょう。

では、どのようにして私たちは商業化の破壊的な影響に目を向けることなく、私たちは分かち合いの本質について話すことができるのでしょうか。それは不可能です。餓死して行く私たちの兄弟姉妹に目を向けなければ、正義について語ることができないのと同じように、それは不可能なのです。利己主義と貪欲の影響が私たちの社会を支配し、私たちが成功と業績を盲信し続けるとき、どのように分かち合うことができるのでしょうか。私たちのマインドを条件付けるその巧妙で操作的なやり方を通じて、商業化は分かち合いの原理を貧困者の惨めな影に、そして飢え苦しむ何百万という人々の無力な母に変えてしまいました。これらの偏在する物質勢力を目の当たりにして、人々が分かち合いを世間知らず、または夢物語として見なすこと、そこへあなたが分かち合いは世界の問題を解決するための鍵だと言ったなら、彼らがあなたは惑わされていると思うのは、至って自然なことなのです。


モハメッド・ソフィアン・メスバヒはシェア・ザ・ワールズ・リゾースィズ(STWR)の創設者である。

編集協力: アダム・パーソンズ

Image credit: Tax Credits, flickr creative commons

翻訳:村田穂高