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信条、イデオロギー、「主義」についての講話

Mohammed Sofiane Mesbahi
2014年7月18日

人類の苦しみは非常に古く、あなたの魂は
そのすべてを目撃してきました。右派に投票し、  
左派に投票し、中道派に投票し、自身の魂から人類の

一体性のビジョンを奪い取るまで、あなたは
すべての転生を通して投票します。

一度は、あなた自身に投票してみませんか -  
愛に投票し、あなたの魂の存在と目的に投票し、 

生きとし生けるものの大使となるために…
なぜなら、愛すべき人類は、あなたが神の愛と
呼ぶかもしれない生命そのものの愛を
浴びているからです。 

* * *


頂点に達した人類の問題を踏まえると、すべての国の内外で政府が分かち合いの原理を実現することは現在、以下の点で極めて重要です。第一に、鬱病のレベルが現在世界中で蔓延の域に達しているので、経済的困難と社会的崩壊によって広く抑圧されているすべての人に内在する喜びと創造性を解放するためにそれは重要です。第二に、生存のための適切な手段を持たず生活し、貧困と病気で日々不必要に死んでいく何百万人もの男女子供にとってそれは文字通りの意味で重要です。そして第三に、社会を変革するために必要な時間が急速に無くなりつつあることから、私たちが環境の破局を回避する可能性を得るためには、分かち合いの原理を世界経済政策に融合する必要があります。地球自体が病んで緊急の危機的状態にあり、それに必要な癒しと救済を提供できるのは分かち合いだけなのです。

しかし、これらすべての点で、私たちは苦境に立たされています。なぜなら、分かち合いが実際に、私たちの問題の解決策であり、私たちの最後に残された希望だという集合的な理解である決定的要素が欠落しているからです。分かち合いが唯一の解決策であるという包括的な民衆の認識がなければ、この疎かにされた原理を世界情勢に実現することは不可能です。したがって次の疑問が生じます:この認識をどのようにもたらすことができるのでしょうか。莫大な数の一般の人々が、世界情勢の緊急性を認識し、社会に携わり、皆で結束するという共通の責任を私たち全員が共有しているのだということを理解するにはどうすればよいのでしょうか。

これは、現代社会に永続する自己満足と、将来の出来事の展開を予測不可能にする人類の自由意志を考えると、答えを出すのが非常に難しい問題です。私たちの以前の考察で論議したように、今日の世界における最大の危険は商業化自体ではなく、私たちの叡知が自然と霊的進化とは反対の方向に導かれるその内外の現れへの絶え間ない自己投影です。[1] したがって、私たちの自己満足的な無頓着さと無関心は、極度に貧しく飢えた人々の真っ只中で私たちの人格を驚異的な下劣さへと形作ります。実に、私たちの気まぐれなパーソナリティは母なる地球の重荷となり、さらには人間の魂の重荷となってしまいました。人間の自由意志が自身の運命を決定するままに任せ、自然界のすべての王国の不変の法則の中で、温和な進化の勢力が自然な経過を静かに辿るにつれ、遠方から見た人類は、自己満足的な無頓着さと無関心を食べる群れのように見えるに違いありません。すなわちそれは、すべての人間の人生の痛み、避けられない悲しみ、そして私たちが住むこの不運な惑星の時間と空間を通しての緩慢な進行を意味します。

*

私たちはすでに、商業化の悪意のある巧妙さと微妙さ、そして個人的にも、集団的にも、私たちの自己満足的な無頓着さに密接に関連するその欺瞞的で捉えどころのない性質を探求しました。[2] 商業化は比喩的な意味で、そして、いくつかの不可思議な理由で、私たちの自己満足的な無頓着さと結婚したと言えるかもしれません。それは、遠方の国々で貧困の結果人が死んでいることを耳にしても無関心で居続けるよう私たちを成らしめます。したがって分かち合いの原理が、なぜ社会でこれほど見過ごされているのかという探求の中心となるのは、自己満足的な無頓着さと認識の間に存在している関係を理解することの必要性です。それが私たちの意識に強力で開放的な効果をもたらす可能性があります。私たちの自己満足的な無頓着さがあらゆる形態の信条、イデオロギー、及び「イズム(主義)」を通じて、どのようにそれ自体を合理化し、その存在を一般化してきたのかについて私たちはまだ十分に考察していません。

マインドの動きを綿密に観察すると、すべての社会を特徴付ける多くの主義が一般の人々の条件付けに大きな役割を果たしていることがわかります。その結果として、私たちは混乱し恐怖に怯え、自己満足的で無頓着になってしまいました。ほとんどの人は本質的に他者に対して善意を表す傾向にありますが、人類の歴史を通して、私たちは信条とイデオロギーへの自覚のない自己投影により常に方向を見失ってきました。その結果、魂がその目的を生涯果たすことができなくなるまで、混乱と恐怖が私たち全員に影を落とすのです。簡単な心理的言葉で言えば、私たちを内外から分裂させ惑わせ、そしてハートとその知恵を蘇らせることから慈悲心を妨害する、マインドの中の濃い霧または「グラマー(幻惑)」を効果的に作り出すマインドの思考形態として主義を説明することができます。

あらゆる種類の主義が、私たちのパーソナリティに深刻な悪影響を与えることが可能です。信条への絶え間ない誤り導かれた自己投影を通じて、私たちのマインドの条件付けは最終的に人生の真の現実への霊的盲目をもたらします。そして、私たちは自己の意識的認識の拡大を制御し、各国がそれぞれの運命に応じてより迅速に進化することを社会レベルで集合的に阻止するのです。人類の文明の歴史は、この内なる観点から実際には主義の歴史です。これが私たちの存在の、苦悩に満ちた厄介な真実です。なぜなら私たちの結果として起こる恐怖、混乱、自己満足的な無頓着さは大昔から常に、分裂と荒廃、そして今日の惑星規模の大混乱をも引き起こしてきた物質主義的な暗黒の勢力を、私たちの周りに生み出してきた危険な状態の在り方だからです。

私たちは通常、主義を社会主義、仏教、グローバリズム、実在主義などの主要な政治哲学、宗教上の教義、または独特の理論やムーブメントの観点からのみ考えます。しかしそれが、私たちが意識の中で真実及び現実を知覚することを妨げ、基本的な倫理と道徳を損なわせることさえできる心理的要因として考えられることは滅多にありません。このため人生のあらゆる領域で、主義が表現され得る方法が無数にありますが;学術的アプローチはその重要性を理解する上で無益でしょう。なぜなら学者もまた、私たち全員を罠にかけた主義を永続させていることに大きな責任があるからです。さらに、心理的発達や霊的進化の観点から主義のより深い意味と含蓄について考える学者はほとんどいません。

人類の現在の進歩段階において、私たちは二極化する思考形態の惑星規模の大混乱の中で生活し動いています。人生のあらゆる領域において「達成」しいわゆる成功者になりたいという私たちの欲求を商業化がまさに喰いものにしているように、様々な形態の主義もまた、私たちのマインドの条件付けと信条への自己投影を喰いものにしています。主義は信条への自己投影と執着のプロセスなくして存在し得ません。しかし主義はまた、子供が新しく形成された観念化の中で成長できるようにするという点で、特に自己認識の成長へ潜在的に有益で健全な役割も果たします。簡単な例えをあげると、主義はスペースシャトルのロケットのように、地球の大気圏を離れると同時に宇宙飛行士が軌道に乗れるように廃棄されるべきです。同様に主義を最終的には切り離さねばならない事実に注意を払う、助言者によって主義が子供の意識内で導かれるなば、主義は子供の成長と進化を促進することができます。

問題は、教師や親も条件付けられいくつもの主義に執着し、その結果、子供は混乱した信条とイデオロギーの重荷を大人になっても引きずっていくことになります。やがて、その個人の初期の思考の中で特定の主義が解き放たれ制御できなくなり、遂には自分の信条を他者に強制することにより害を及ぼすかもしれません。すべては単なる信条から生じているに過ぎないのですが、私たちは信条と共に成長し執着するようになり、自己を完全にそれに投影するのです。誰かが私の主義や「信条に対する信条」を侮辱するなら私は余りに憤りを感じ、民族的及び宗教的紛争の状況下で頻繁に起こっているように、その相手と戦うか、さらには殺すことさえ決意するのです。すなわち、マインドが余りに支配的な影響力をもつようになり、自己に植え付けられた頑固で誤った思い込みを打開するのに無力なハートは沈黙の中待つしかないのです。

したがって、その多様な表現における主義は、信条とイデオロギーによってプログラムされ、(マインドを通じての)絶え間ない自己投影によってパーソナリティに埋め込まれた一種の生物学的コンピューターとして理解することができます。私たちが主義に自己投影する主な理由は、不信、恐怖、不確実性に満ちた世界で安心と安全を感じるためです。誰もが心理的及び物理的安全を切望しており、とりわけ、偉大な宗教的主義は私たちに必要な安心感と帰属意識、そして継続性と秩序を与えてくれます。子供に宗教的信条や古い伝統を授けることには保護的要素もあります。

しかし、幼い頃から、印象付けられやすいマインドに結晶化した思考形態が強引に押し付けられるなら、その子供が最終的にその信条を断ち切ることができるまで、認識と執着のない心をもってそれを正しく位置付けることはできないのです。教師や保護者の動機が何であれ、有害な主義を子供たちのマインドに伝えることによって彼らの意識的認識の成長を制御することは、人間の自由意志を侵害する目に余る行為です。たとえば、私たちの保護下にある若者を「良いクリスチャン」、またはユダヤ教の熱烈な信仰者になるよう強いることは、それらの宗教の何世紀にもわたる痛みをその哀れな子供のマインドに詰め込むことです。意図は良いかもしれませんが、根深い信条体系を課すことは子供の心理的安全性への必要を歪めるだけであり、最終的には内なる自由と自己知識への道を妨げることが可能です。

仏教の教義や自由主義を定義する哲学的見解など主義がとるさまざまな形態をここで理解しようとしているのではないことを念頭に留めておくことが重要です。むしろ私たちは、この独特の心理的現象のより深い起源を把握し、そしてどのように主義の創造が社会に非常に広く遍在するようになり、最終的に私たちを感情的に損傷させ意識の進化を妨げることを可能にしたのかを内部で認識しようとしているのです。すべての家族、グループまたは集団の活動に主義が関与しています。主義の中には無害のものもありますが、教育、宗教、政治の分野においては特に、権力と支配のために操作されているものもあります。誰もが一種類以上の主義を通して人生を考えます。たとえば、「人格の構築」について話すことなどは主義の一形態であり、または、「私はこうなのだから」と言うことなどは神経症的表現です。ただし、主義にどっぷり浸かった社会に住む誰もが、必然的に何らかの形で神経症的なのですが。

富や名声を切望することがまさに、極度に腐敗した主義の表現であり得るように、家族自体も主義であり得ます。最終的に私たちのパーソナリティ、認識、そして自己に対するイメージに主義が入り込んでしまうほど、人生に対する間違った態度によってあらゆる側面から攻撃されている社会の中では私たちのアイデンティティそのものが主義なのです。「自分は選ばれた人間なのだ」と人に信じ込ます、自己に固執した魅惑的な信条に私たちのパーソナリティが自己投影するとき、主義が鏡に映しだされ私たちに跳ね返ってくるのが見えさえします。人生に対する一般的に感情的な態度、永続するマインドの条件付け、そして内なる認識と自己知識の欠如など多くの要因から、人類は文字通り主義の工場です。マインドは他者の信条を信じることによってそれ自体を条件付ける優れた能力をもっていますが、パーソナリティが社会集団の一員として受け入れられるために、マインドの条件付けをどのようにしばしば故意に引き起こすかを観察するのは興味深いことです。例外なく、主義が私たちの周りのいたるところに浸透しているという事実は、私たち自身がこれらの主義の中から生きていることを意味します。それは、「我考える、故に我あり」ではなくむしろ、「我信じる、故に我あり」なのです。

要するに、主義は本質的に、心理的安全、意味、確実性、目的を感じることへの私たちの必要性に基づいています。しかし、無限に衝突する主義と信条が浸透した社会での生活の結果、根深い虚しさ、混乱感、不安感が私たちの存在の特徴であり続けます。私たちは自己のアイデンティティまたは実際の存在が事実上、それ自体を主義に形成していることを観察しました。したがって、私たちの意識中の「存在」が経験する今という瞬間もまた、恐怖で満たされているのです。無数の主義と信条の支配下にある社会では、無意識のうちに、しばしば正当な理由はないのですが、人類のお気に入りの娯楽は大体において不安でいることと心配していることのように見えるのです。

私たちは、意識的認識の下で起こる、通常は機械的プロセスである主義への絶え間ない自己投影から引き起こされる多くの深刻な結果について探るべきです。それは、私たちが自分たちの行動が自由で追従や模倣した信条に基づいていないと思っていたとしても、私たちは主にマインドの条件付けの中から生きそれに基づいて行動していることを意味します。それは、私たちが物事をあるがまま見ることをせず、自分たちがあるべきだと思うようにしか見ないということです。主義に満ちたマインドは人生の現実を見ることができず、今の瞬間を生きること、人生の美を形容せずに認識すること、そして常に測りに掛けたり、比較したり、イメージを醸しだしたりすることなく思考の静止を経験することができません。

これは、主義の条件付けの中で人生を生きる暗黙の苦しみです:私たちは常に自分たちの条件付けの言いなりになっているので、自己が真に誰であるのかを知ることができません。「汝自身を知れ」が何を意味するのかさえ私たちは理解できないかもしれません。したがって、私たちは自分たちの本質と触れ合っておらず、お互いのありのままの姿を見ることもできず、そしてお互いに真の姿になることを許さないでしょう。それは、今日の多くの人々が内なる自己についての認識を持たず、しばしばその存在の静けさの中で一人になるのを望まないということを意味します。なぜなら、「私」は条件付けられたマインドによって囚われ幽閉されているからです。マインドは活発になるとすぐに、主義と信条の終りなきサイクルに捉えられます。そして、マインドがバランスと分別を見いだし、願わくはコモンセンスを持って考え始めるようになるまで、ハートは黙っていることを強いられます。主義は騒々しく不穏で分裂的ですが、ハートは認識と沈黙を通してのみそれ自体の存在を明らかにすることができるのです。

個人レベルにおけるあらゆる種類の主義は、叡知、創造性、自己認識の否定をもたらす可能性があります。そしてより広く社会的には、主義は正しい教育の普及と善意の表現、または正しい人間関係を妨げる可能性があります。しかし、人間の歴史を通して、社会に最大の被害と分裂を引き起こしたのは支配的な主義です。偉大な政治的及び宗教的イデオロギーに関連する歴史的観点からこれは明確に理解されるかもしれませんが、共産主義者や社会主義者、左派やリバタリアン、アナーキスト(無政府主義者)や新保守主義者、あるいはキリスト教徒、ユダヤ教徒、イスラム教徒、ヒンズー教徒、神智学者などとして自己を定義することが、心理的にどのように自己に対する暴力行為であるかを知覚することははるかに微妙なことなのです。さまざまなイデオロギー、教義の教え、信条は非難されるべきでなく、それらは私たちのマインドをより高い理解と目的に向けて集中させるのに役立つ貴重なガイドラインとして役立つかもしれません。しかし、それらのガイドラインは、人類がそのような信条体系全体への自己投影を通じて他の主義に対立する主義へとそれを変えるとき、危険なまでに分裂的になるのです。

信条自体が危険なのではなく、間違った自己投影によって維持された、信条に対する信条が唯一危険なのです。自己を無神論者と呼ぶことさえ分裂的かつ暴力的行為です。なぜなら、無神論者は神に対立する信条なくしてあり得ないからです。そして、分裂があるところには暴力もあります。実際の暴力でなければ心理的な暴力です。私が自己をクリスチャン、あなたをイスラム教徒と呼ぶなら、私たちの間に立ちはだかる分裂の中に人間らしさは何もありません。そしてさらに悪いことに、無数の信条によって定義されただけの神の名の下で、私たちは分割されているのです。

それは、以下の問いを熟考することへと私たちを導くかもしれません:過去と古代の戦争は、本当に宗教に基づいていたのでしょうか。それとも、対立する信条への私たちの間違った自己投影の結果だったのでしょうか。世俗的視点から、これは私たちが人類史と呼んでいるものですが、外から眺めると、最も虚栄心の強い人間のドラマとして認識されるかもしれません。これが、現代社会の問題を照らし出すシェークスピアの永続的必要性を明白にしています。一方、このすべての不必要な混乱と悲劇の真っ只中で、自己は生涯から生涯へとさまようパーソナリティを無力に傍観しながら、不可解な主義によって常に囚われているのです。

*

この太古の問題を内に向かって探求することで、分極化した主義と信条の大混乱の至るところで私たちが身動きできなくなっているとき、分かち合いの原理が現在殆どの人にとってアピールや深遠さに欠ける由を理解するのに役立つかもしれません。たとえば、あなたが政治分野でどちらを向こうと、いずれかの党派から即座に主義が授けられるでしょう。あなたが富と資源のより公平な分配をもたらそうとする政治家なら、あなたは即座に社会主義者と呼ばれるでしょう。あなたがすべての人のために無料の教育と医療を促進させようとするなら、あなたは共産主義者と呼ばれるかもしれません。あなたが中道的に大多数の有権者を満足させようとするなら、あなたは汚い資本主義者と呼ばれるでしょう。非常に多くの無意味な口論と論争を通じて人類はそれ自体を疲れ果てさせていると言えるほどです。そして、うんざりする児童クラスのように振る舞っているのです。 

しかし、私たちのコモンセンスと分別に対する闘いに最も責任があるのは政治家ではありません。なぜなら、私たちは政治的主義の運動への絶え間ない自己投影によって社会的進歩から自身を妨げているからです。私たちは以前の追求で、システムを永続させることにおいて私たちを共犯者に仕立て上げるために、[3] 幾分かの尊厳と希望を提供することによって政治演劇舞台が私たちの忠誠心を吸い取るのと似た方法で、商業化がどのように私たちに幸せを提供するかを考察しました。「我々こそ人民である」または「我々こそ何が正しいかを知っている」と言う人々の間の尊厳感に続いて、政党、政治的革命、そして熱狂的支持者の信条に自己投影することは私たちに非常な尊厳感を与えてくれます。しかし、イデオロギーが対立や衝突に基づいているとき、私たちが支持するものは偽の尊厳です。イデオロギーと対立するイデオロギーは、人類自体が敵となる、主義と信条の闘いの中で最終的にそれ自体を失うでしょう。

これは確かに、共産主義の基礎となる原理に当てはまります。それは全人口の自由意志を侵害する道具として巧みに使われただけでなく、他の一連の原理と対立するためにも強化されました - そのことは、旧ソビエト連邦の崩壊を当初から運命付けていました。共産主義の真の原理はこれまで実際に顕現されたことはなく、社会で振動したことがあるだけです。資本主義は、主義戦争で最後に勝利した現在孤独な少年です。これは主に、資本主義社会における自由意志の侵害が遥かに隠れて偏在しているためです。それは自分たちを「資本主義者」として定義する人々の特定の所属先がないことから大変洗練された主義です。そして自由の女神や個人的自由の思想の影に巧妙に隠れることをうまくやってきました。それでもなお、資本主義や社会主義、左派や右派の視点から考える限り、常に社会にストレスが生み出され、これらの言葉の存在自体が必然的に、分裂及びその結果としての苦しみをもたらすでしょう。

心理的及び霊的な観点から見るなら、「私は社会主義者だ」または「私は反資本主義者だ」と言った途端に戦争が始まります。それは、実際の戦争でなくとも、あなたと私の間の対立の始まりであり内なる混乱と心理的分裂の始まりです。自己を社会主義者と呼ぶこと、あるいは資本主義のイデオロギーに反対していると考えることさえがすでに対立の根本的要素です - なぜなら、あなたは人類の本質的な霊的結束から自分自身を内面的に切り離しているからです。実際には、ある擬人化された主義が「我々はすべての人にとって何が最善かを知っている」と提案したり、それに対立する主義が「我々は社会を組織する方法についてより良いアイデアを持っている」と挑戦したりするのは馬鹿げています。このように、すべての政治的主義は、覇権のための戦いに勝つことを試みましたが、必然的に失敗しました。なぜなら、私たちが主義を通じて対立に基づき世界を変えようとする限り、平和も真の社会的進歩もあり得ないからです。キリスト自身が突然現れて、人類の唯一の未来はキリスト教社会主義であると宣言したとしても、それがすべての人の最善の利益のために機能することは不可能なのです。

政治的主義は、一度パーソナリティが長期にわたってそれに自己投影するなら、その表現はますます微妙で捉えどころのないものとなり、その機能は非常に奇妙なものとなります。政治的信条とイデオロギーへの絶え間ない自己投影からもたらされる内なる葛藤を注意深く観察することにより、私たちはそのような主義と自分たちの自己満足的な無頓着さの間に存在する心理的関係を認識し始めることができます。二極化する主義に引き裂かれた社会での投票の行為は、実際には多くの場合、私たちの自己満足的な無頓着さの主な表現です。選挙運動が行われ、票を求めて街頭で遊説している政治家を例にとると、その政治家をガソリンなしでは走らない車になぞらえることができます - この場合のガソリンは、私たちが投票を通じて表現する自己満足的な無頓着さを象徴します。選挙後、その車が突然動かなくなるか、完全に故障するかしたとき、偽りの約束を破った政治家を私たちは非難するのです - 私たちの「ガソリン」なくしてはこの大惨事が起こっていなかったであろうという事実にもかかわらず。それは良い車であると私たちはその政治家を信じました。したがって、私たちは「信条を信じた」のであり、そして政治家にその車で好き勝手するための白紙委任を与えたのです。ひいては、すべてがだめになったとき、分断された世界を癒そうと自己の役割を果たすために創造的な方法で社会に関わり合う代わりに、私たちの殆どがする唯一のことは、ガソリンを入れる別の車または「主義」を探すことなのです。

このように、投票という行為は、主義と私たちの自己満足的な無頓着さとの間の回避的な繋がりを例示しています:

私は政党によって広められた信条を信じるが、その政党に失望させられた途端、自動的に信じるべき別の信条を探すのだ。それによって、社会のすべての問題に対する自己の責任を放棄し、あなたから、そして自分と同じ考えをもたないすべての人から自己を心理的に切り離す。この心理的な分離感覚は、最終的に私の創造性、独自性、そして最も内なる霊的可能性の表現を妨げる自己満足的な無頓着さの一形態としてそれ自体を形取る。ある程度認識を持つようになり政党政治統制にエネルギーを投入することを止めたとしても、今日や過去の世代の何百万人もの人々のように私は依然として自己満足的な無頓着さの中で動きが取れず、プロパガンダと選挙活動の果てしない騒動の中で漂っている。その間、残りの社会が、政治的主義の中で戦うか、さもなくば無関心、または無反応で居続ける一方で、富裕層と権力層は私の背後でお金を儲け、世界の苦悩と破壊から利益を上げ続けている。
 

*


自由選挙と民主的プロセスが人類の進化において果たした非常に重要な役割をここで否定しているのではありませんが、公職の候補者の受動的選択が私たちの世界の未来を守るには十分ではない時点に達しています。資源の協力的な分かち合いを前提としたより啓蒙的な経済時代を予見できるなら、大々的な政治運動のために数十億ドルもの費用をかけて互いに対立する一連の政策優先項目を持った社会主義や資本主義の候補者を宣伝することにどのような価値があり得るのでしょうか。富と資源をすべての人と公平に分かち合う統一された世界は、(隠れ潜み、途方もないロビーパワーを持った)特権的な少数派の利益に基づく今日の社会の法則の恩義を受けない、人類全体に仕える新しい種類の政治家を政府に必要とします。私たちが今日の党派心あらわな政治的指導者にエネルギーと権威を与える限り、人類は自己満足的な無頓着さと無関心を食む群れとして遠方から映り続けるでしょう。 民主主義の真の表現が存在したことのある国はかつてなく、大多数の人々が「不朽の知恵」の教育を通じて自己知識を得るまで明らかになることはないでしょう。私たちのマインドが恐怖と不安によって条件付けられている間は、そして、私たちの社会に信頼や平等がない間は、民主主義が何を意味するのかを知ることさえできません。そのような社会がどのような民主主義を生み出すことができるのでしょうか。 

詰まるところそれは、物理的貧困と霊的貧困、及び巻き添え被害である世界の飢餓をも引き起こした共産主義、社会主義、資本主義、そしてそれらを取り巻くすべての宗教的混乱によってもたらされた、終わりのない心理的戦争なのです。これは、新聞の見出しを独占している多くの中東やアフリカの国々などの主義の戦争によって引き裂かれている壊れた社会に見て取れることは明らかです - アル・シャバブやシーア派民兵、NATOやCIAなど、軍事主導の破壊を引き起こしているのが誰であろうと - 偶発的な犠牲者を代表するのは常に貧困者や飢餓者です。しかし、私たちが認識することをさらに躊躇するのは、自分たちの大衆としての結集した自己満足的な無頓着さを通じてこの巻き添え被害を生み出すことに私たちも一役かっているという事実です。

私たちは、利権を優先し戦争兵器に数十億ドルをも注ぎ込んだ政府を非難するかもしれませんが、政府はそうすることができ、そうする権利があり、そしてそうし続けるでしょう。なぜなら、私が口を噤んで顔を背けているからです。そして、なぜ私は黙っているのでしょうか。なぜなら、主義がますます私を捉えていく間、私は社会の中での私自身の個人的戦線で頭が一杯だからです - それは、おおよそ私の注意を逸らし財布を盗るスリのようです。この場合の財布は、私のコモンセンス、善意、分別を象徴しています。最終的に私は余りに条件付けられてしまうため、私と人生の現実の関係は不運にも断片化されてしまいます。なぜなら、現実をありのままに見ることができないか、あるいは周りの人間の苦しみに対して基本的に道徳的または倫理的反応を示すことさえできないほど、私の認識は主義によって濁らされているからです。

繰り返しますが、これは多くの政治的または宗教的原理主義者に見て取れることで明らかですが、私たちの幻想を現実的かつ文明的な風に装うために、より微妙な主義が私たちの自己満足的な無頓着さをどのように知的化したかを私たちが認める可能性はあまりないようです。たとえば多くの霊的グループでは、飢餓から死んでいく何百万人もの人々について軽く話し合い、それを彼らの霊的「カルマ」として合理化することが一般的です。それは私たちに、無意識に自分たちの懸念の欠如を免除させ、私たちの集団としての共犯行為を無視させます。カルマとは、実際には愛と自由の活力に満ちた表現であり、その定義によると、生き、学び、成長する権利をすべての人に与えます。この基本的事実は、私たちの兄弟姉妹の魂を非難してまでも彼らの不必要な飢餓をむしろ合理的に処理することを私たちが望むとき、自己満足的な無頓着さと無関心を通して私たちのパーソナリティが下劣な驚異へとどのように形作られてきたかを痛切に明らかにします。アイデアを主義に変えることが好きな人は人類自体をアイデアとして見なす傾向があり、栄養失調で亡くなっている子供はおよそ学術的に「飢餓主義者」として分類されるかもしれないほどです。

真実は、私たちがそれを直視することができるなら、豊かな世界で人を餓死させることは最大の罪であり、自己満足的な無頓着さを通して私たち全員が世界規模で犯している罪なのです。生きとし生けるものがすべて神と呼ばれるものの一部であり、そして神が進化する生命であることを受け入れるなら、人を貧困の中で生活させることは生存の人権を否定するだけでなく、霊的に進化する神聖な権利をも否定するということです。魂が、地球で進化しパーソナリティを通してそれ自体を表現する自由は、道徳の基盤であり、責任の基盤であり、すべての基盤です。したがって、主義への自己投影の最終結果は見るに堪えません。私たちは実際のところ、自分たちの自己満足的な無頓着さと無関心をグローバル化し;人間の意識の拡大を妨げ;人間の知性が穏やかな進化の勢力から誤った悲惨な方向に向かっている間、歴史が何度も繰り返されることを許してきました。

では、分かち合いが人類の問題の解決策であり、分断された世界を復興させるための最後の希望であるという認識をどのようにもたらすことができるのでしょうか。この会話をすることさえも開かれたマインドと認識を必要とします。そうでなければ、私たちの思考には人間らしさはなく、イデオロギーがあるだけです。一方では、私たちは商業化勢力によって非常に条件付けられているため、私たちの多くは現在利益と公益を混同しています。そしてもう一方では、私たちは確立された政治的思考によって非常に条件付けられているため、国家間で資源を分かち合うという考えが「ユートピア的理想主義」または単なるナンセンスと見なされるに至るまで、ほとんどの人が社会主義や共産主義のイデオロギーを分かち合いと混同する傾向にあります。私たち自身がいくつもの主義や信条に自己投影するとき、私たちは問題の巨大さを認識することができるのでしょうか?その主義と信条のあまりの多さに、私たちが自分たち自身を偏りなく見ることができたとしたら、驚くどころかぞっとするかもしれません。私たちの知覚は主義によってあまりに濁らされ断片化されているため、人生に対して正直かつ誠実に反応し、内部で執着のない心と認識を持つ自由を理解することが何を意味するのか殆どわからないのです。

では、主義に基づいて構築された社会に住み、人類に仕えることや愛することについての教育を受けておらず、そして自身を気遣うように互いを気遣うことを奨励されていないとき、私たちはどのように自分たちの家を後にしていわゆる革命をもたらすことができるのでしょうか。私はあなたを助けに行きます。それは私が社会主義者またはクリスチャンだからなのか、あるいはあなたが私の兄弟として私の助けを必要としているからでしょうか。それとも、あなたが絶望的に食べものと避難所を必要としているからでしょうか。主義と信条による歪曲なしで私が正義の本当の意味を知っているなら、「私の権利」と私自身の正義を求めて街頭で叫ぶのでしょうか - それとも、世界の死にゆく貧困者と飢餓者のために正義を要求するのでしょうか。

むしろ、不条理なことに、それはまた大衆の自己満足的な無頓着さが原因で、自然界と未来世代の権利のために戦う環境主義者などの主義が存在することを余儀なくされています。全人類がこの惑星を救う必要性に同調して動いていたとしたら環境主義のようなものは存在していなかったでしょう;よりシンプルで持続可能な生活様式を受け入れる結束した人々の声だけがあったことでしょう。さらに、誰もが私たちの世界をより良い方向に変えることに積極的に取り組んでいたなら、「積極行動主義」の概念など存在せず、活動家と社会の残りの人々との間に何も違いはなかったでしょう;皆が万人の公益のために仕える人生を生きるひとつの人類があっただけでしょう。

私たちは認識と自己知識を教え込むことを助長する新しい種類の教育を緊急に必要としています。これは、人生への霊的理解に基づいていない世界では途方もない取り組みです。正しい教育について話すことは、主義の問題、マインドの条件付けの問題、信条への誤った自己投影の問題、危害を与えないことの必要性、そして内なるバランスと自由の必要性の問題を考慮しない限り不可能です。真の意味での教育は、私たち全員を自己の独自性と創造性の中で進化するよう備え、それによって私たちが真の自分であることの美を表現できるようにすべき「いのちの法則」の辞書なのです。レンガ壁のような自己知識にまったく歯が立たないことを知っている商業化は、あらゆる方法で正しい教育を排除するために最善を尽くしてきました。熟考、無執着、そして恐怖と心理的不安の克服をもたらすのは自己知識だけです。しかし、主義に踏みつけられている世界ではこれは余りに途方もない課題であり、せめて地球の破壊が不可逆的になるまでに教育システムを改革し正しい方針に沿って若者を教える時間がありません。したがって、今日の機能不全社会における正しい教育への第一歩は、単に、私たちの自己満足的な無頓着さから抜け出してもっと霊的認識を持つことです。

おそらく、世界の状況について私たち自身が責められるべきではないと論議して良いかもしれません。なぜなら、私たちは皆、霊的に盲目で嘆かわしいほど誤り導かれた文化に生まれ落ちたからです。しかし、「自己」を内部で体験することは、意識を恒久的に変革しある程度マインドの条件付けから私たちを解放するのに十分です。私たちの真の霊的性質の現実を一瞬でも知ることは非常にパワフルで、その効果は常に私たちの内に残り、決して失われることはなく、決して終わることはないでしょう。私たちは以前、無神論者は「神」に異議を唱える信条なしには存在できないと論じましたが、「神」への信条でさえが最終的に断ち切られ、自己知識、そして遍在する不滅の「ワン・ライフ」への認識に置き換えられねばなりません。

長期的には、 人類の教育がこれらのより霊的な(宗教的でない)方向に基礎から発展し、それによって各人が生きる術を実践するために必要な基本的教えとガイダンスを備えられるまで主義の問題から逃れることはできません。同時に、すべての男女子供が生命を維持するための必需品へのアクセスを保障できるように、全経済体制の構造が変革されねばなりません。「いのちの法則」の普遍的な教えと並んで、社会に信頼と安心の物質的基盤があるとき、人々が数多くの主義のあらゆる形態に自己投影し増殖させる必要はもはやありません。これは、前例のない社会変革が必要なことを考えると、対立し合うイデオロギー及び信条の泥沼を乗り越えるには人類が遥かに多くの時間を必要とすることを示唆しているかもしれません。不当な経済秩序を維持するすべての法律と構造を改革するには明らかに時間が必要です。明らかに、時間は必要ですが、悲しいかな、その時間の中で人道に対する罪を永続させることに私たち全員が関わっているのです。それは、回避可能な病気と貧困から毎日何万人もの人々が亡くなっているという悲劇です。

ここに恐るべき難題があります:私たちが世界情勢の緊急性を認識せず、自己満足的で無頓着、そして無関心であり続けているとき、人類の問題について政府を非難することはできないということです。政府は分裂的な信条を維持しているかもしれませんが、私たちの「信条に対する信条」は、凄まじい人間の苦しみを目の当たりにしながらも私たちが受動的であり続けることを可能にしているため、責められるべきは私たち自身です。私たち自身が政府の有害または怠慢な政策に苦しんでいるとしても、私たちの自己満足的な無頓着さはかなりのもので、私たちの個人的状況が平常に戻ったとしても、私たちの意識に変化はないかもしれません。したがって、人々の認識が拡大する時間が必要ですが、その時間の中で人道と地球に対する凄まじい犯罪がなされているのです。そして私たち全員に、それに対する集団的責任があるのです。

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世界情勢の中で分かち合いの原理を実現するための唯一の希望は、一般の人々が意識をハートに集中させることです。主義と条件付けを通してハートの特質を妨げることにより、私たちを誤った方向へ導くのはマインドですが、ハートは常に私たちと交信する瞬間を待っています。ハートは条件付けられたマインドと交信することはできません;それはハートからハートへと交信できるのみです。そして、私たちのマインドは余りに知的で横暴になり絶えず私たちを支配しようとしているので、先に述べたように、それがバランスと分別を見つけるまでハートはどうしようもなく沈黙しているしかないのです。マインドがバランスと分別を見つけた時点でハートは活性化され、誰もが知っているように、それは言葉ではなく寛大さ、分かち合い、善意、共感、そしてもちろん、愛などの性質によって特徴付けられるその属性の表現を通じて話すのです。

ハートは、操作的な意図を持ったマインドのように考えたり計算したりしませんが、どのようなレベルの知性とも比べものにならないほどの知恵を持っています。過度に汚染されず条件付けられていない見解を持つ人と出合うとき、その外観にもかかわらず、「純粋な」ハートのようなものすら存在しないのです。内在する属性を持つ一種類のハートがあるのみです。ハートは携わるか、沈黙するかのどちらかです。生まれたばかりの赤ちゃんがただ赤ちゃんであり、「悪」や「冷淡」だと見なすことができないように、ハートは常にただハートです。成功したビジネスマンに「単にあなたのハートを使いなさい」と言ったなら、彼が私たちを世間知らずで単純思考だと片付けることは間違いありません。それでも、彼さえが恋に落ち、おそらくは愛する人と惜しみなく自己の富を分ち合うとき、ハートの特質に従事するのです。

現代文化の中でハートの偉大な特質が軽薄に扱われているのと同じように、分かち合いの原理が取るに足らないものとしてどのように軽視されているかを観察するのは何と奇妙で悲しいことでしょうか。読者は、人類のハートが一度地球規模で活性化されたらどうなるかを目撃するまで待たねばならないでしょう。なぜならハートは、「対立」する主義に基づいたり「私の権利」や自己の正義のためでなく、共益に基づいてのみ動員することができるからです。筆者が言えるすべてのことは、そのようなときに、政府に世界資源を分かち合うよう街頭で一斉に要求する無数の人々を心に描くことができるなら、統一した人々の声の中に魂の目的が存在するのを私たちは認識するだろうということです。そして、それは、私たちのマインドの内容から主義が削除され始めるだろうときなのです。

この理解の下、私たちが思想のためでなくむしろ自分たちの真の存在のために街頭でデモンストレーションをすべきことは極度に重要です。私たちの文明危機の解決策を提供できる政党や主義はありません。なぜなら答えは目覚めた大衆全体にあるからです。政治的、経済的、社会的構造を改革するための思想を持つことは良いことであり必要なことですが、従事するハートと結集した善意を通じて答えを表現するのは世界の人々です。ですから、結束した人々の声を通じて唯一「私たち」が解決策を持っていることから、あなたがやって来て「私は解決策を持っている」と言うことはできないのです。「私はどうするべきか」と他者に問うことさえ、認識を欠き無頓着で居続けるということです。なぜなら、ひとつの声を持った一般人の蜂起に参加する「私」やパーソナリティなどないからです - そこには、適切で正しい行動へ自然と導くグループ及び人類全体としての考えがあるのみです。

前例のない規模の世界的緊急事態へのハートの目覚めを通して表現されるように、分かち合いが人類にとって最後の手段であるという公衆の認識が最初にもたらされなければなりません。そうして初めて、政府間政策と大規模な市民参加を通じてその認識が実現することを予見できるのです。世界を救い、資源を分ち合うための協力的な取り組みの中で政府が結束する展望は他にありません。なぜなら、彼らは何百年間というもの他のすべての手段を試み尽くしてきましたが、何も効果がなかったからです。この経済的激変の時代に、他国から財源を借りる国を既に目にしていますが、なぜ政府間で協力して、食料とその他の必需品を共同で備蓄し再分配することによって互いに助け合うことができないのでしょうか。私たち人間の発明の才と急速な技術的進歩を組み合わせることによって、利害、利益、戦略的優位性への必要性なくして、どのように各国がすべての人が適切な生活を営めるよう支援すべきか、そしてどのようにその相互支援を恒久的な構造的基盤で提供すべきかについての国際計画を国連で成立することがなぜできないのでしょうか。

分かち合いの原理がすべての社会の運営基盤として適用され、それによって国家間の圧力と競争を取り除くならば、そのような経済的及び政治的取り決めには「主義」は存在しないのです。国内及び国家間で分かち合うプロセスを実行することの効果は、資本主義と社会主義のイデオロギーを本来あるべき場所におさめて最終的に双方が一緒に機能できるようにすることです。それはまた、「対立」でなく唯一「協力」のエネルギーだけを通して、私たちが世界問題を考察することを可能にします。したがって、それは社会主義がすべての人の基本的ニーズを満たすために必要な道具であるのと同様に、資本主義も革新的経済に必要な道具であることを認めるように私たちを導いてくれるでしょう。このような分かち合いのプロセスを世界中で実現して初めて、この普遍的な原理が古代の社会問題や国家間の対立に対する解毒剤であることがわかるでしょう。なぜなら、分かち合いはまた、これらの主義によりもたらされた衝突からの解放をも意味するからです。主義と信条の果てしない争いが、進化を非常に遅らせるまでに人類を沈めてしまったことを認識するなら、私たちはすでに世界資源の分かち合いの前進のペースが加速するだろうことを理解するところに近いのです。

したがって、マインドの条件付けと誤った信条への自己投影が何千年もの間濁らせてきた魂の目的と分かち合いの原理の間に存在するエネルギーの整合性を直感的に理解することは不可欠です。この非常に重要な時期に自己の存在について熟考することは、分かち合いが私たち自身の本質的部分なのだという現実を私たちに悟らせてくれるでしょう。それは、進化する意識の梯子の上で人間であることの美を再認識するよう私たちを自然に呼び起こすでしょう。私たちが共有する潜在意識の奥底に横たわるのは人類は「ひとつ」であるという認識です。それは、数えきれない生涯を経て、各々の個性の中に隠され続けてきた真実です。分かち合いの原理は、この事実をハートの中心を介して潜在意識から顕在意識へと伝達する十分な力を備えています。それは最終的に、謙虚な気持ちにならずにはいられない驚きの認識へと人類を導くでしょう: 遥か以前に、この原理を世界情勢に実現しているべきであったと。

 


注釈

[1] モハメッド・ソフィアン・メスバヒ、商業化:分かち合いの対極www.sharing.org/ja  

[2] Ibid.

[3] Ibid.

モハメッド・ソフィアン・メスバヒSTWRの創設者である。

編集協力:アダム・パーソンズ

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