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イントロダクション
第22条:社会保障を受ける権利
第23条:労働の権利
第24条:休息と余暇を得る権利
第25条:十分な生活基準への権利
第26条:教育を受ける権利
第27条:文化的、芸術的及び化学的生活を楽しむ権利
第28条:自由で公正な世界への権利
第29条:社会に対する義務
第30条:権利は不可侵である
イントロダクション
人間として、万人が希望および要求することのできる権利を世界のリーダーたちが明確に述べて以来70年が経ちました。再びホロコーストが起こることを防ぎたいう願望から生まれた世界人権宣言は、世界変革のアイデアのパワーを明示し続けます。
世界人権宣言(UDHR)は1948年12月10日に導入されました。70周年を記念して、30条項を総体的にとらえるために、国連人権事務所は30条項から毎日1条項づつ、30日間ファクトシートを発表しました。このシリーズは、どれだけの取り組みと成果が必要かを示すこと、そして希望に生命を吹き込んだ人々を重んずることを試みます。
70年間で世界が劇的に変わったにもかかわらず – 世界人権宣言の起草者は、デジタルプライバシー、人工知能または気候変動などの問題を予見しませんでした − 人間の尊厳へのフォーカスは、自由の概念を進化させるための強固な基盤を提供し続けます。
世界人権宣言30条項の普遍的理想の範囲は、最も根本的な − 生命の権利 − から、食糧、教育、仕事、健康および自由の権利など人生に価値を与える権利にまで至ります。すべての人の生来の尊厳を強調すると同時に、その前文は、人権は「世界における自由、正義および平和の基礎」であることを強調します。
まだ記憶に新しい世界大戦と大恐慌を持って、起草者は、人間にしてはならないこと、そしてなされねばならないことを説明しました。
チリの起草者エルナン・サンタ・クルーズはその当時、人権は「存在することの事実」から派生し − それは国家によって与えられるものでないことに58の加盟国が同意したことを目撃しました。この認識は、「欠乏と抑圧から自由となって生き人格を完全に発展させるための不可侵の権利を生みだした」と彼は語りました。
それらはすべての男女子供の持って生まれた権利であることから、30条項に記載されている権利は不可分です − そのすべてが同等に重要であり、どれを優先することもできません。言い変えると、そのなかのひとつの権利を否定することは、その他の権利を享受することを困難にします。
UDHRは私たちの素晴らしい遺産です。その普遍的魅力は、最も翻訳された文書として、ギネス世界記録を有するという事実に反映されています – アブハーズ語からズールー語に至るまで、これまでに512の言語に訳されています。
1948年に国連に提出されたその文書は、一部の参加者が期待していたような詳細な拘束力のある条約ではなく、宣言として詳しい法的方式を著しく欠いた原則声明でした。駆けだしの国連人権委員会の最初の委員長で、フランクリン・ルーズベルト米大統領の未亡人エレノア・ルーズベルトは、「一般男女が簡単に理解できる簡潔な文章」の必要性を繰り返し強調しました。万人のための国際人権を形どったふたつの拘束力のある国際条約が導入されるまで18年以上かかりました:経済的、社会的および文化的権利に関する国際規約と市民的及び政治的権利に関する国際規約は1966年に導入され、世界人権宣言と並んで国際人権規約として知られています。
過去70年間UDHRは国際法のおよそ全範囲に浸透してきました。その原理は国内法や重要な地域的な条約に埋め込まれており、そして90カ国以上がその言葉と原則を自国の憲法に記しています。女子および子供の権利、拷問、そして人種差別を含んだ多くの国連の条約が特定の UDHRの条項から派生しました。
今日、すべての国連加盟国が9つの主要な国際人権条約の少なくともひとつを批准しており、そして80%が4つ以上を批准し、UDHRと国際人権の普遍性を具体的に表明しています。
そのような進歩は、多くの場合人権活動家による英雄的苦闘の結果でした。「人権は、人々がそれを享受するためにテーブルの上に差しだされるものではありません」と、亡きケニアの環境保護活動家でノーベル賞受賞者のワンガリ・マータイは言いました。「人権は、あなたが戦い守るものです」
UDHRのすべてのテキストは2年以下で成作されました。それは、世界が共産主義の東側諸国と西側諸国に分割されたばかりの時であり、アメリカでまだリンチが一般的で、そして南アフリカではアパルトヘイトが強化されていました。そのような時に、驚くべき合意に達したのです。
国連シリア代表は当時、人権宣言は国連総会の業績ではなく、「その目標のために努力してきた世代の人間の業績」であることを認識しました。
しかしながら紙面でそれを具体化する任務は、中国の脚本家チャン・ペンチュンとレバノンの哲学者で大使のチャールズ・マリック医師を含んだ、多様なバックグラウンドを持った小さな起草者グループのもとに落ちました。以前の文書の「男子」はUDHRにおいて「すべての人」となった事実は、インドのハンザ・メフタ、ドミニカ共和国のミネルヴァ・ベルナルディーノ、そしてパキスタンのベグム・シャイスタ・イクラムラなどの女性代表によるものでした。
最終草案は、1948年12月9日パリでの深夜会議で、奴隷の子孫であるハイチの代表エミール・サン・ロットによって総会に提出されました。人権に関する決議草案は、「社会に新たな法的および道徳的基盤を与えるために、人類がこれまでに行った最大の努力」だと彼は語りました。
国連総会の会場でさえ悲しさが漂っていました。シャイヨ宮は、アドルフ・ヒトラーが1940年のパリへの短いツアー中に、エッフェル塔を背景に撮影された見晴らしの良い場所でした − それは、第2次世界大戦の象徴的イメージでした。
その後日、12月10日(現在、人権デーとして毎年祝われている)には58カ国が人権を国際法の領域に持ち込み、その促進および保護を主要な目標および指針となる原則にした、国連創設の憲章のなかの言葉への7つの言及を増幅しました。
起草者たちは、世界中の権利を確実に含めるために約50の現代憲法を検討しました。1941年にフランクリン・ルーズベルト米大統領が宣言した四つの自由からも大きなインスピレーションが得られました。彼は、言論の自由、信仰の自由、欠乏からの自由、恐怖からの自由として、基本的な人間の自由を定義づけ、「自由とは、あらゆる場所で人権が至上であることを意味する」と説明しました。
UDHRは、(1789年の「人間および市民の権利の宣言」− フランス人権宣言のように)市民に限定された権利から、特定の国に属するしないに関係なく、すべての人のための平等な人間の権利へと前進しました。それはまた、国家がその領土内の人々に対して好き勝手できる行動の自由を持つという概念を明確に否定しました。1945年と1946年にニュルンベルク国際軍事裁判所において、ナチスのリーダーたちは、この新しくつくられた「人類に対する犯罪」の罪を自分たちが問われることはできないと主張しました。なぜなら、ヒトラーの後継者に指名されたヘルマン・ゲーリングの言葉によると、「…それは我々の権利だ!我々は主権国家であったし、それは厳密には(他国に関係のない)我々だけの事柄であった」
国際レベルへの人権の向上は、もはや国家基準の行動のみによって支配されないことを意味します。また、UDHRの導入以来、政治的または軍事的便宜のために人権を放棄することはできないという基本原則は国際法に吸収されているだけでなく、地域および国家の法律および制度(アメリカおよびアフリカ連合のオーガニゼーションによって確立されたもの、そしてヨーロッパで確立されたものを含んだ)の拡大し続けるネットワークにも次第に吸収されています。
現在、すべての国が外部監視の対象となっています − 1998年の国際刑事裁判所の設立はもとより、ルワンダ、旧ユーゴスラビア、シエラレオネ、レバノン、カンボジアおよび東ティモール国際刑事裁判所および特別法廷の設立をももたらした概念です。中核となる国際陣形条約の実施を監視する、独立した国連専門家および委員会の数も劇的に増大しました。また、国連人権理事会は、すべての国が5年ごとに相互に人権記録を調べる、「普遍的・定期的レビュー」として知られるシステムを確立しました。
UDHRは、生きた文章として賞賛され、アパルトヘイト反対などの運動を刺激し、そして発展の権利などの新しい権利の精緻化への扉を開きました。公平な裁判を構成するものの概念など、UDHRに列挙されている一部の権利の水準は常に引き上げられています。障害などに関するさらに新しい条約は、専門家だけでなく、それによって影響を受ける人々の直接の関与によって起草されています。
その一方で、70年経った今でも、人種差別、差別および不寛容は私たちの時代の最大の課題であり続けます。市民社会の機能に不可欠な − 表現、組合、集会の自由の権利は、世界のあらゆる地域において攻撃され続けています。政府は多くの場合、彼らが安全保障と見なすものの追求において、または権力や汚職を維持するために、権利を避けたり踏みつけたりする準備ができています。193のすべての加盟国が人権宣言に同意しているという事実にもかかわらず、どの国もその約束を完全に果たしていません。ネルソン・マンデラが、彼の1998年のUDHR50周年を記念する国連総会での演説で述べたように、その失敗は、「自然の力の運命づけられた結果でも神々の呪いの産物でもありません。それらは、人間が決断した、または決断するのを拒否した結果です」乏しい政治的、経済的、そしてその他の形態のリーダーシップの産物なのです。
同時にUDHRは、元国連権利高等弁務官メアリー・ロビンソンの言葉によると、「生命、食糧、居住および健康の権利から − 完全範囲に至るまで、人権を享受することを損なう」気候変動など、火急の問題に関する話し合いの基盤を提供し続けます。そして、それが主張する権利は、貧困と飢餓を根絶することによりとりわけ、2030年までにより良い世界を創造することを求める国連の持続可能な開発目標(SDGs)の中心なのです。
「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利について平等である」− UDHRの第1条についての最初のアーティクルは、11月9日にメディアに送られ、そして www.ohchr.orgに発表されます。
UDHRは素晴らしい遺産です。その普遍的魅力は、最も翻訳された文書としてギネス世界記録を有するという事実に反映されています – アブハーズ語からズールー語に至るまで、これまでに512の言語に訳されています。
1948年に国連に提出された文書は、一部の参加者が期待していたような詳細な拘束力のある条約ではなく、宣言として詳しい法的方式を著しく欠いた原則声明でした。駆けだしの国連人権委員会の最初の委員長でフランクリン・ルーズベルト米大統領の未亡人エレノア・ルーズベルトは、「一般男女が簡単に理解できる簡潔な文章」の必要性を繰り返し強調しました。万人のための国際人権を形どるふたつの拘束力のある国際条約が導入されるまで18年以上かかりました:経済的、社会的および文化的権利に関する国際規約と市民的及び政治的権利に関する国際規約は1966年に導入され、世界人権宣言と共に国際人権規約として知られています。
「すべて人は、社会の一員として、社会保障を受ける権利を有し、かつ、国家的努力及び国際的協力により、また、各国の組織及び資源に応じて、自己の尊厳と自己の人格の自由な発展とに欠くことのできない経済的、社会的及び文化的権利を実現する権利を有する」
市民的および政治的権利の長いリストを綴った世界人権宣言(UDHR)は今、第22条とそれ以降の6つの条項を持って、経済的、社会的および文化的権利へと向きます。主に、20世紀に発達したこれらの権利は、労働、十分な生活基準、教育、出産と幼児期、社会保障への権利、そして文化生活に参加する権利を含みます。
これらの経済的および社会的権利の包含は、米国大統領フランクリン・ルーズベルトの「四つの自由」のひとつ – 宣言の前文に明確に述べられている欠乏からの自由の効果を増大します。
第22条は、今日およそ普遍的に受け入れられている現代の福祉国家の性質をはっきりと説明しています。 国際労働機関(ILO)によると、1900年には17カ国だけに、 高齢者の年金、負傷した労働者の障害に対する支払い、母親への給付金、健康保険および多数のプロブラムを通して、個人や家族を援助するための社会的保護システムが整っていました。社会的支援にはキャッシュトランスファーが含まれる場合があり、人々、特に貧困者や弱者が人生のショックに対処し、仕事を見つけ、そして子どもを教育することを助ける「社会的セーフティネット」としてしばしば言及されています。
ILOによれば、世界的保護システムを持つ国の数が1946年までに104か国、そして2015年までに187か国へと増加していました。2017年には、世界中で約45%の人々が少なくともひとつの社会的な保護にアクセスを持つ一方で、完全な社会保障システムにアクセスを持つのは29%でした。
一方の経済的、社会的および文化的権利と他方の市民的および政治的権利との間の分割は常に人為的なものでした。基本的な教育なくして、どのように言論の自由への権利を活用できるのでしょうか。労働の権利は、グループで集まり労働条件についての意見を述べるスペースなくして弱体化されても当然かもしれません。また、どのような形態の差別でも、差別されるグループの社会的、経済的および文化的権利に対して非常に破壊的影響を持ち得ます。
興味深いことに、長年の権利活動家でUDHR起草委員会の委員長エレノア・ルーズベルトは、国家に義務を課すことを望みませんでした。この宣言は、「人間の権利を明確に述べるべきものですが、国家の義務ではありません」
この見解は、ソビエト圏によって反対され、そしてカナダの代表ラルフ・メイバンクは、もし宣言の権利が成就されたなら、それが資本主義、共産主義、封建制度あるいは他のどのシステムの枠組み内で起ころうと、社会的および国際的秩序は改善していただろう」と言いました。
世界人権宣言に定められた権利を維持するための国家の義務の課題は、拘束力のある法:特に、UDHRから18年後の1966年12月に導入された、経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約および市民的及び政治的権利に関する国際規約という、すべての権利を含んだふたつの遠大な規約を作った9つの中核的国際人権条約の精緻化を通して、事実上、徐々に整えられました。
第22条は、経済的、社会的および文化的権利が人間の尊厳と人間の人格の発達に絶対不可欠だと断言しています。このフレーズは第29条に再度現れ、UDHRの起草者は基本最低限を保証するだけでなく、私たち皆が良い人間になるよう促進することを希望しました。
その約束は完全に実現されていません。ミチェル・バチェレ国連人権高等弁務官は指摘します。「世界人口の71%が完全な社会的保護へのアクセスを持ちません。別の言い方をすると、差別または排除されていると感じたり恐れたりすることなく生活するための基本的手段を地球の3分の1の人々が社会によって保証されていないのです」そして、世界の子供たちのおよそ3分の2である13億人の子どもたちが社会保証を持たないと彼女はつけ加えました。
2009年、完全な社会保障システム構築を促進する「社会保護フロア・イニシアチブ」に国連は同意しました。それ以来、途上国だけでなく、多くの中所得および低所得国でも改善が見られてきました。
モンゴルは家族手当制度を導入し、アルゼンチンは、健康保険を持たない妊婦と新しい母親たちを支援するプログラムの成功を拡大しています。タイ、コロンビア、ルワンダ、中国はすべて、医療への普遍的アクセスの保証を進展させています。
他の多くの国々は、高齢者に収入を保証するプログラムに取り組んでいます:アゼルバイジャン、ボリビア、ボツワナ、カーボベルデ、中国、カンボジア、コソボ、レソト、モンゴル、ジョージア、ナミビア、南アフリカ、タイ、ネパール、トリニダード・ドバゴ、ウクライナ。
人権水準および原則の堅固な基盤に基づいた社会保護フロアは、すべての人のためにより良い世界を構築することを促進できるとバチェレは語ります。「失業、けが、健康障害、老齢、障害が悲惨さと苦難を意味するのでない世界;危機や災害の際に人々が無防備なまま放って置かれることのない世界;そしてすべての子どもたちとすべての人の基本的ニーズが充足される世界を私たち皆が欲しています」
第23条:労働の権利
- すべて人は、勤労し、職業を自由に選択し、公正かつ有利な勤労条件を確保し、及び失業に対する保護を受ける権利を有する。
- すべて人は、いかなる差別をも受けることなく、同等の勤労に対し、同等の報酬を受ける権利を有する。
- 勤労する者は、すべて、自己及び家族に対して人間の尊厳にふさわしい生活を保障する公正かつ有利な報酬を受け、かつ、必要な場合には、他の社会的保護手段によって補充を受けることができる。
- すべて人は、自己の利益を保護するために労働組合を組織し、及びこれに参加する権利を有する。
1941年、エレノア・ルーズベルト米大統領夫人は、「組織された労働運動は高い理想を理想を持つため、労働者だった全員が労働組織に参加すべきことは重要だと常に感じていた」とストライキを行っていた労働者に語りました。
その5年後、世界人権宣言(UDHR)の起草委員会の委員長として彼女は、世界がどう発展すべきかについてのビジョンを反映する世界人権宣言を形取る重要な役割を国際労働機関に与えました。
UDHRが起草されている間、アメリカ労働総同盟には国連に常勤スタッフがいました – ドイツ・ナチスから逃れた政治家でジャーナリストのトニ・センダーでした。他の労働者代表とともに、 ルーズベルト夫人は労働組合権を具体的に含めることを強く主張しました。彼女はまた、第23条が4つのパラグラフに明確に説明されることを確かにするよう促進しました。それは、差別のない平等な仕事における平等な賃金を伴った、「すべての人」の働く権利です。労働組合を結成して参加する権利も明確に述べられています。
この第23条の3番目のパラグラフは、労働者と彼らの家族に「人間の尊厳に値する存在」を確保するための「公正かつ有利な報酬」を要求し、敗北したばかりの強制労働のナチス・ドイツとは違ったより良い世界のビジョンを再び反映しています。
1945年国際連合が創立された時に組み入れられた、数少ない国連機関のひとつ、国際労働機関(ILO)の取り組みを基盤に起草者は前進しました。まさに国連が第2次世界大戦後創設されたように、 ILOは1919年に第一次大戦の灰のなかから設立されました。それは、社会正義に基づいてのみ永続する普遍的平和が確立され得るのだというビジョンを追求しました。
(完全雇用を支持するイデオロギーを持った)共産圏からの代表と並んで、ラテンアメリカ代表は第23条の最終文書の策定に大きく関わりました。特にソビエト連邦は、「失業からの保護」という最終用語だけでなく、失業を防ぐための国家に対するより大きな義務を求めました。
過去25年間で、極度の貧困状態にある労働者の数は劇的に減少しましたが、2015年には世界中で失業者数が2億400万人以上に登り、失業は依然として大きな問題です。
平等な仕事からの平等な賃金は、ほとんどの国でまだ夢です。より一般的には、女性は経済的エンパワメントを達成することおいて、永続的な障害に直面しています。世界銀行によると、約155カ国に女性の経済的機会を制限する法律が少なくともひとつあり、100カ国が女性ができる種類の仕事に制限を設けています。18の国家において、妻が働けるかどうかを夫が決定することができます。
児童労働もいまだ多くの国に存在しています。ILOは、1億5200万人の子どもが、教育を受けることを妨げる精神的、身体的、または社会的に危険な仕事していると述べています。アフリカでは、5人にひとりの子どもが児童労働者であり、世界のその他の地域では割合がより小さくなっています。世界的に、児童労働の犠牲者の約半数は5歳から11歳です。
国連の17の持続可能な開発目標(SDGs)のひとつは、適切な仕事と経済成長に努力を投じています。国連は、2030年までに、強制労働、奴隷制度、人身売買を根絶し、すべての男女のための完全かつ生産的な雇用と適切な仕事を達成することを望んでいます。
残念ながら多くの面で、世界は労働者の権利を保護することにおいて進歩せず後退しています。 国際労働組合総連合(ITUC)は、労働者の権利を促進および擁護します。そのグローバル・ライツ・インデックス2018では、労働組合を弱体化し労働者と組合のなかに脅迫感をつくりだすために、ますます多くの国が労働保護を削ぎ労働者の権利の擁護者を迫害していると述べています。
2018年、世界で最も人口の多い3つの国(中国、インドネシア、ブラジル)の政府は、労働者の結社の自由を拒否し、言論の自由を制限し、労働争議を鎮圧するために軍隊を使った法律を可決しました。
書面上では、労働者が結社の自由への権利を持つ一方で、2018年ITUCによって調査された142カ国のうち92カ国が、一定のカテゴリーの労働者(例えば、パートタイマーなど)をこの権利から除外しました。同時に、多くの消費者が、大部分が市民社会組織による持続した擁護活動の結果として、生活賃金の支払いや安全な作業環境づくりなど、第23条に含まれている課題についてさらに意識的になっています。
国家に加えて、すべての企業は、大きさやセクターに関係なく、働く権利、結社の自由および団体交渉権などの中核的な労働権を尊重する責任を負っています。この責任は、企業のグローバル・バリューチェーン全体に適用され、2011年に国連に採択された国連のビジネスと人権に関する指導原則に準拠しています。
国連人権高等弁務官ミシェル・バチェレットは、経済的および社会的権利の侵害には「莫大な」費用がかかると主張しています。例えば、障害のある人を労働力から除外すると、GDPの最高7%もの経済を失う可能性があります。
「多くのビジネス部門からの証拠は、人権を尊重することが企業の収益に直接影響を与える可能性があることを示している」と彼女は言います。消費者もまた、「購入する商品およびサービスに関連した人権問題」を詳しく検討する役割を担っています。
第24条:休息と余暇を得る権利
「すべての人は、労働時間の合理的な制限及び定期的な有給休暇を含む休息及び余暇をもつ権利を有する」
簡潔な言葉で世界人権宣言第24条は、第23条で明確に述べられた労働権のもう一方、すなわち、過重労働をしない権利を提示しています。それは、労働時間の制限と有給休暇の権利を謳っていますが、キューバの起草者ペレス・シスネロスが1940年代後半に言ったように、「怠の権利」と解釈されるべきではありません。
19世紀においてでさえ、長時間労働は労働者の健康と彼らの家族に危険をもたらすという認識がありました。労働時間の制限と休息の権利は、中核となる人権条約のいずれにおいても明確に言及されていませんが、1日8時間および1週間48時間を産業界に適用した国際労働機関(ILO)によって1919年に採択された最初の条約に正式に記されています。
第23条は、1946年から1948年までの間の起草プロセスに貢献したラテンアメリカ諸国から大きく恩義を受けています。 1940年代半ばには、この地域のほぼすべての国の政府が民主的であり、その憲法は、年次休暇や他の形態の有給休暇の提供を含み、社会的および経済的権利で満たされていました。
これらの憲法は世界人権宣言(UDHR)のインスピレーションとして検討され共産圏の承認を得ました。ユーゴスラビアの起草者ヴラディスラヴ・リブニカルが言ったように、「無給休暇の権利は意味がありません」
妥当な労働時間に関連して、余暇および有給休暇は各人の自己啓発および教育の権利です。これは、UDHRが人々の人格の完全な発展を確保することを目指す多くの規定の1つです。
労働者の心身の健康を守ることに気を配ることは、高い生産性を確保することにも役立ちます。一方、能力を超過した長時間の過重労働は致命的であり得ます。
日本では、1969年に最初に特定された「過重労働からの死」を意味する Karōshi (過労死)という言葉があります。これは日本に限ったものではなく、過労死は最も多くの場合、ストレスと乏しい食べものが原因の心臓発作や脳卒中によるものです。
ILOは、日本の大手スナック食品加工会社で働いていた男性の過労死の事例を報告しています。この男性は、週最高110時間働いて、34歳にして心臓発作で亡くなりました。他のケースでは、58歳の夫が過労死で亡くなった14年後に妻は損害賠償金を受け取りました。夫は、東京の大手印刷会社の従業員として夜勤も含めて年間4320時間働いていました(24時間中16時間に相当します)。
働きすぎの従業員に加えて、多くの国で多くの労働者が、これまででは考えられないほど、危険または不健康な環境で働いていますが、それでも負債と貧困に陥っています。これらは、身分に関係なく移民であり、不法滞在者と居住権を持つ人たちの両方です。
1990年の条約、すべての移民労働者及びその家族の権利の保護に関する国際条約は、休息と余暇の権利を含む、非国民の労働とそれに関連した権利を保護することを目的としています。ただし、それは主に、むしろ移民を受ける側ではなく、生みだしている54カ国によってのみ、今のところ批准されているのみです。
しかしながら、重要な地域機関も移民の雇用権を守るために取り組んでいます。アメリカで労働者の組織化を試みたために解雇されたある不法滞在のメキシコ人労働者の場合、米州人権裁判所は、彼に対する未払いの賃金は支払われるべきだと述べ、労働権を含んだ、管轄内のすべての人の権利を保障する義務が政府にあると認めました。
安全で健康な労働条件への権利、老時間の制限と有給休暇への権利を確実にする法的義務がすべての政府にありますが、2008年の世界的不況以来これらの権利は一部の国で攻撃されています。
多くの先進国では、福利厚生、有給休暇、安全対策、組合代表の可能性を伴う、安定した仕事がますます有期雇用契約に取って代わっています。
ある専門家が言ったように、今日の世界の労働者は「裕福な同族経営を手伝う十代の若者と変わらない」ように見えます。完全な労働保護を備えた昔ながらの雇用の代わりに、「現在、ある程度の経験を積んだり、少額のお金を稼いだり、注文が入った時には手伝ったりしています」
従業員が生計を立てようとしていること、そして雇用者が彼らに対して義務があるという概念は、それがしっかり確立された一部の国でも、それが今まで完全に根を下ろさず途切れ途切れに進歩してきた国でも、着々と侵食されています。
企業自体には、国連ビジネスと人権に関する指導原則に基づく責任の一部として、余暇の権利を尊重する責任があります。この責任は、サプライチェーン全体に適用されます。 つまり、「 人権デューデリジェンス(人権の適切な配慮)」の一環として、企業は、その活動や作業のいずれかが従業員の過剰な労働時間をもたらしていないかどうかを検討する必要があります。
第25条:十分な生活基準への権利
- すべて人は、衣食住、医療及び必要な社会的施設等により、自己及び家族の健康及び福祉に十分な生活水準を保持する権利並びに失業、疾病、心身障害、配偶者の死亡、老齢その他不可抗力による生活不能の場合は、保障を受ける権利を有する。
- 母と子とは、特別の保護及び援助を受ける権利を有する。すべての児童は、嫡出であると否とを問わず、同じ社会的保護を受ける。
世界人権宣言第25条は、十分な食料、水、衛生、衣類、居住、および医療の権利はもとより、心身障害、配偶者の死亡、失業、老齢およびその他の不可抗力による生活不能の場合における社会的保護を含む、広範囲の権利を包括しています。母と子は、特別の保護および援助を受ける権利を有します。
この条項は、フランクリン・ルーズベルト大統領の四つの自由の有名なビジョンに基づいた、欠乏からの自由を保証するための努力です。1941年の演説で、四つの本質的な人間の自由に基づいた世界を彼は心待ちにました:言論および表現の自由、信仰の自由、欠乏からの自由および恐怖からの自由です。ルーズベルトの死後、そして第2次大戦の終結後、エレノア夫人は、UDHRを起草する委員会の最初の部分として四つの自由にしばしば言及しました。
「恐怖と欠乏からの自由」のフレーズは、UDHRの前文にあらわれ、第25条はそれがどうあるべきかを述べます。それは、UDHRと並んで、人権規約から成る経済的、社会的および文化的権利に関する国際規約のなかでさらに具体化されています。
働く人の権利を守るふたつの条項の後、第25条は「すべての人」が社会的および経済的権利を持つことを強調しています。誰一人として落ちてはならない最低限の生活レベルがあります。現在において古めかしいながらも進歩的な概念を表現する言葉でこの条項は、「嫡出子であろうと非嫡出子であろうと」すべての子どもに同じ権利が保証されることを明確に述べています。第25条はまた、世界中で何百万という老人が直面する特定の問題に取り組むための現在の努力の基盤を形成しています。
「健康及び福祉…に十分な生活水準」の必要性として、第25条に記載されている第一の要求は食糧です。元食料への権利に関する国連特別報告者 ジャン・ジーグラーは、「食料への権利は、すべての人に無料で食料を配るという意味ではない」と述べましたが、例えば、強制立ち退き、作物の破壊または貧困の犯罪化などによって十分な食料へのアクセスを阻止しない義務が政府にはあります。また、同じように、民営の水道サービスは、安全で基準を満たした水の十分な供給への平等で手頃な料金のアクセスを譲歩することはできません。
専門家の多くは、世界はすべての人を食べさすだけの十分な食料を生産していると言います。しかし、不平等な富と資源の分配が原因で、8150万人が慢性的な飢餓に苦しみ続けています:彼らは貧し過ぎて食料を買えず、食料を生産する土地を持ちません。あるいは、解決が可能であろう他の様々な障害に直面しています。
貧困は人権侵害の原因かつ結果です。そしてそれはUDHRに列挙される他の多くの権利を手の届かないものにします。2017年に世界銀行と世界保健機構は、世界人口の少なくとも半分(約38億人)が貧し過ぎて基本的な医療サービスを受けることができないと報告しました。また、その報告によると、10億人近くが、彼ら自身、病気の子供、あるいは他の家族のメンバーのための治療に世帯の10%の収入を費やしていますが、およそ1000万人にとってこれらの出費は彼らを極貧に押しやるのに十分です。それは、容認できない不必要な状況です。
極貧は十分な収入の欠乏以上のものです。極貧および人権に関する特別報告者にとって、極貧は収入の欠乏、(健康、学校および生活条件などの)基本的サービスへのアクセスの欠乏、そして社会的排除を必然的に伴います。この基準で見ると、22億人以上 – 世界人口の30% – が貧困に近い生活をしているか、すでに貧困で生活しています。
そのような貧困の根絶を前進させる仕事を持って – 現在の特別報告者 フィリップ・アルストンは、極貧は発展途上国だけに限られていなことを指摘しました。政府の政策は、高いレベルの貧困を定着させ、世界の最も裕福な国々においてさえ「不必要な悲惨さ」を強制します。
「食べるものがないため、フードバンクやチャリティに頼ったり、友人のソファで寝かせてもらっている人々と話をしました」とアルストン氏は2018年のイギリス訪問時に語りました。彼はまた、「お金または寝泊まりする場所のためにセックスを売ったり、この先どうなるかわからないまま貧困のなかで育つ子供たち」とも会いました。
各国政府が(気候変動に関するパリ協定からのアメリカの離脱の発表など)国際的義務から退いたところに、各都市が穴埋めをするためにますます介入しています。グローバル・サウスは「人権都市」を確立するためのムーブメントを主導し、そしてヨークはイギリスの最初の人権都市となるためにこれに続きました。
2017年の宣言のなかでヨークは、「普遍的人権の基盤の上に築かれた活力のある多様で公平、そして安全なコミュニティのビジョン」を受け入れ、5つの人権の優先事項を選びました:教育、居住、健康および社会的介護、適切な生活水準、そして平等および非差別の権利です。ヨークの最初の4つの優先事項は第25条にある社会的権利であるかたわら、5つ目 − 平等および非差別 − は、UDHRおよびすべての社会的権利のまさに中心です。
第26条:教育を受ける権利
- すべて人は、教育を受ける権利を有する。教育は、少なくとも初等の及び基礎的の段階においては、無償でなければならない。初等教育は、義務的でなければならない。技術教育及び職業教育は、一般に利用できるものでなければならず、また、高等教育は、能力に応じ、すべての者にひとしく開放されていなければならない。
- 教育は、人格の完全な発展並びに人権及び基本的自由の尊重の強化を目的としなければならない。教育は、すべての国又は人種的若しくは宗教的集団の相互間の理解、寛容及び友好関係を増進し、かつ、平和の維持のため、国際連合の活動を促進するものでなければならない。
- 親は、子に与える教育の種類を選択する優先的権利を有する。
2002年、ケニア政府が無料の初等教育を発表した時、キマニ・ナグアンガ・マルゲは小学校に入学することを決めました。それのなにが珍しいのでしょうか?彼は84歳の曽祖父だったのです。ケニアの新聞の見出しに、自分で仕立てた制服の半ズボンをはいて、6歳の子供たちと一緒に小さな席に座っている彼の写真がありました。
マルゲは、説教者が聖書を正しく引用していたかどうかを知るために、生涯ずっと読むことを学びたかったと言いました。彼はそれから5年後に亡くなりましたが、ギネス世界記録に小学校教育に入学した最年長者として認定され、無料の初等教育の重要さに関する国連ミレニアム開発サミットで演説するためにニューヨークに招かれました。
世界人権宣言(UDHR)第26条は、無料の初等教育を義務づけており、通常は子どもについての権利として考えられています。しかし、マルゲが示したように、あらゆる年齢の人々が教育と読み書きする能力を習得することから利益を得ることができます。彼の人生についての映画が作られただけでなく、彼のストーリーは、学校に戻って教育を終えるインスピレーションをケニアの多くの教育未修了者に与えました。
この権利はさまざまな国際条約、特に経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約、および子供の権利条約(米国を除くすべての国が批准された)でさらにはっきり示されています。UDHRの第26条には、第22条および第29条にも記載されている「人間の人格の完全な発達」への権利があります。起草者は、世界人権宣言の社会的、経済的及び文化的権利の多くを要約する方法としてこの用語を見ていたことが明らかであり、個人、子供と大人の両方に力を与えることにおける教育の役割に国際機関がますます焦点を当てています。
UDHRの長い権利のリストには珍しいことに、この条項はいくつかの点で広く達成されています。今日、世界のさらなる子供が初めて教育を受けられるようになり、一部の地域では女子の小学校出席率が男子と同等になっています。学校に通っていない子供の総数は、2000年の1億人から2015年には推定5700百万人に減少しました。
世界銀行とOECDは、1960年には世界の42%の人だけが読み書きできたと推定しています。 2015年までに、その数は86%に上昇していました。 アンドラ、アゼルバイジャン、キューバ、ジョージア、リヒテンシュタイン、ルクセンブルク、ノルウェー、ポーランド、ロシア、スロベニア、タジキスタンの一部の国では、識字率は100%かそれに近いです。
しかしながら識字率は動きのある目標です。現在、多くの国が、第26条に定められた目標に従って、中等教育を無料化および普遍化しようと目指しており、より広範な高等教育を狙いとしている国もあります。多くの場所で「識字率」はまた、数字、イメージ、コンピューター、言語、そして有用な知識の伝達および取得の他の方法を包括するために拡張されています。
しかし、これらの肯定的な数字は、疎外されたグループの子供と最悪な形態の貧困および剥奪のなか生活する人々に教育への権利が拒まれ続けるなど、主に不平等と差別が原因で、進歩もまた非常に不均一である事実を隠しています。最も不利な立場にある子供たち、たとえば、障害のある子供たち、先住民族の子供たち、無国籍の子供たち、そして特に、これらのグループに属する女の子たちは、取り残され続けます。
過去50年間の識字率の着実な上昇にもかかわらず、世界にはまだ7億5000万人の非識字者がおりそのほとんどは女性です。持続可能な開発目標(SDGs)は、2013年までにすべての若者とほとんどの成人が識字と計算能力を達成することを確実にするための主な機会を提供し、特にSD4は教育へのアクセスと質の改善の両方に取り組んでいます。
多くの場所で、女子は社会的および文化的慣習により教育を受けるこができません。主に北アフリカおよびサブサハラアフリカ、そして西および南アジアに位置する43カ国ではいまだに、若い男子に比べて15〜24歳の若い女子は基本的な読み書きができないことが多いのです。
教育の欠如は、特に女子の教育の欠如は、社会全体、健康、および国の経済発展に多大な影響を与えることが実証されています。特に、教育への権利の剥奪は、多くの場合、それが定着した貧困のサイクルを永続させることから何世代にもおよびます。教育は、疎外された子供や大人を貧困と社会的排除から引き離すために利用できる最も強力な手段であるかもしれず、彼らに影響を与えるプロセスや意志決定において彼ら自身が積極的な役割を果たすことを可能にします。
基本的な人権として教育は他のすべての人権の行使に不可欠です。それは、個人の自由を促進し、子供のより広範なエンパワーメント、福利および発達に、とりわけ、人生を通して彼らの権利を理解および主張する能力を彼らが備えることを確実にすることによって決定的に貢献します。
おそらく、女子の教育の最も顕著な支持者はパキスタンの活動家であり、最年少のノーベル平和賞受賞者であるマララ・ユサフザイでしょう。スワット谷で地元のタリバンが女子が学校に行くことを禁止してからも彼女は学校に行き続けたため、彼女と他の二人の少女はタリバンから銃撃を受けました。
それでも物怖じせず、彼女は回復後も活動を続けました。「ガンでテロリストを殺すことはできるけど、教育でテロリズムを殺すことができる」と彼女は言います。
第27条:文化的、芸術的及び化学的生活を楽しむ権利
- すべて人は、自由に社会の文化生活に参加し、芸術を鑑賞し、及び科学の進歩とその恩恵とにあずかる権利を有する。
- すべて人は、その創作した科学的、文学的又は美術的作品から生ずる精神的及び物質的利益を保護される権利を有する。
砂石の崖から切りだされた10階から16階建てのビルの高さにあたるバーヤミンの巨大な仏像は、2001年にタリバンがそれらの彫像を粉々に爆破するまで15世紀に渡り中央アフガニスタンで崇敬と畏敬の念を高めました。1993年のボスニア戦争の間、モスタルの町にその名を与えた優美なアーチを持つオスマン橋 スタリ・モストは意図的に砲撃の標的となり、427年間守られてきた記念碑はネレトヴァ川に沈められました。
攻撃する武装団が、民間人または敵の勢力の士気を粉砕したい場合、彼らはしばしば文化遺産のシンボルを故意に破壊します。
世界人権宣言(UDHR)第27条は、これが戦争犯罪として認識されるための基礎を築くことを助け、2016年9月の画期的判決で、国際刑事裁判所(ICC)は、ティンブクトゥの宗教的・歴史的建造物を攻撃したことを戦争犯罪として、マリで活動する武装グループ、サンサール・ダインの メンバー、アフマド・アル・ファキ・アル・マハディに禁錮9年の実刑判決を言い渡しました。
それは、ICCにおいて文化遺産の破壊が戦争犯罪として起訴されたのは初めてであり、そのような裁判の事例が続くことが期待されます。特に、イラク北部およびシリアをかつて侵略し広範な宗教的・文化的建造物の理不尽な標的破壊を遂行したISISのメンバーに対してなどです。
アル・マハディの裁判は、戦争犯罪として文化遺産の破壊で個人が単独で告発された初めての事例でした。他の法廷は、モスタルの橋の破壊を含む文化遺産の犯罪的破壊に対して個人を起訴しましたが、即決処刑や拷問などのさらに確立された戦争犯罪に付随する犯罪としてのみでした。
アフマド・アル・ファキ・アル・マフディが破壊するのを助けた、歴史的大霊廟のひとつを除くすべてを、このコミュニティを引き裂く戦術である「文化浄化」としてイリナ・ボコヴァ ユネスコ事務局長は述べています。
文化的権利に関する特別報告者カリマ・ベヌーンによれば、「差別的意図による文化財の破壊は人道に対する罪として起訴され得ます。そして宗教的・文化的遺産の国際的破壊および象徴もまた、集団殺害罪の防止および処罰に関する条約の意味内で、グループを破壊する意図の証拠と考えられます」
第27条は、コミュニティの文化生活に自由に参加し、科学の進歩とその恩恵を分かち合い、自分の業績を認められる権利をすべての人が持つと言っています。この条項は文化的権利を人権としてすべての人のためにしっかり取り入れています。それらは知識と理解の追求に関連しており、常に変化する世界への創造的な対応に関連しています。第27条を実現するための前提条件は、すべての人が、絶えず批判的思考を持つために、そしてアイデアを考察し、追求し、貢献する機会を得るために、必要な条件を確保することです。
国連の不運な前任者である国際連盟の大きな未達成の目標のひとつは少数民族の保護でした。1946年から1948年までUDHRが作成されていた時に重要な貢献をしたレバノンの起草者チャールズ・マリックは、少数民族の権利を強く擁護しました。彼は、少数派コミュニティのメンバーが極端な同化政策から確実に保護されることを望んでいました。最終的に、世界人権宣言には少数派グループのメンバーの権利に捧げられた条項は他には含まれていませんが、「文化」という言葉は少数民族の民族性、宗教など「生活のあり方」も指しています。それは多様性を守るということです。
第27条は、人間の尊厳と人間の人格の発達に経済的、社会的および文化的権利は不可欠であるという主張において第22条と第29条に密接に関係しています。共に、それらは基本的な最低限の基準を保証するだけでなく、私達皆がより良い人間になることを促進するという、UDHRの起草者の決意を示しています。3つの権利はすべて、169カ国によって批准された経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約を含む他の国際条約に定められました。
第27条に含まれた別のトピックには、特に気候変動と病気に関する議論において「科学の進歩とその恩恵を分かち合う」すべての人の権利が近年攻撃されているという懸念があります。
一部のサークルでは、人間が気候変動を引き起こしているかどうか、または気候変動が存在するのかどうかさえについての問題が、厳密な科学ではなくむしろ個人的信念の問題として扱われています。そして科学出版物は、「専門家の影響に対するポピュリストの敵意の高まり」と述べられたものに警戒を表明しています。2018年、58人の専門家のグループが、「圧倒的な科学的コンセンサスと」、意図的に疑いを撒き散らす、「受益階層から多額の資金を受けたロビーの間に虚偽の同等性」をもたらしている、見当違いのバランス感覚を非難する公開状を書きました。気候変動は現実だと彼らは言明しました:「危険な気候変動の原因と影響にどう取り組むかについての議論を緊急に進める必要があります」さもなければ、「大惨事」になると彼らは言いました。
科学または疑似科学に対する懐疑論は、何十年もの予防接種キャンペーンの成功後、大幅に減少した病気に対して子供に予防接種を受けさせないよう親にかけられた圧力によって悲劇的に示されたように、多くの生命を犠牲にする可能性があります。世界保健機関は、2000年から2017年までに麻疹ワクチンによって2100万人の生命が救われたと述べていますが、2016年から2017年までの間に、 その危険性に関する誤った論議がもとで親がワクチンを拒否したことが一部の原因として麻疹のケースは30%急上昇したと報告しました。 2017年だけで11万人の子供が麻疹ウイルスから死亡したとWHOは推定しています。
同様に、商業上の利益を公益より優先することは、特許ポリシーや専門的出版物の購読料が知識とその適用をそれらを必要とする人にとってアクセス不可能にする時、生命の損失をまねく可能性もあります。これは医学に当てはまりますが、食料生産、建築、工学、その他の分野でも同じです。
第28条:自由で公正な世界への権利
「すべて人は、この宣言に掲げる権利及び自由が完全に実現される社会的及び国際的秩序に対する権利を有する」
世界人権宣言は、1946年から1948年までの楽観主義でありながらも過去30年間の大惨事 – 大恐慌と2度にわたる世界大戦 – によって影を落とされた時代に作成されました。UDHRの起草者の見解では、世界平和は、人権を尊重しすべての人のために人生を改善する機会をもたらすために不可欠でした。
第28条は、全体として、「世界人権宣言に明記された権利と自由が完全に実現されることが可能な社会的および国際的な秩序への権利を有する」と述べています。
世界人権宣言の背後にある指導的思想家の一人、フランスの法学者で裁判官のルネ・カサンは、すべての宣言を結びつける最高のトリオの最初のものとして見なしました。彼は、建築上の類推を通してUDHRを説明するために、古典的なギリシャの神殿のポルティコ(または玄関ポーチ)を比較しました – 基礎、階段、4つの柱の上にのった三角形のペディメント(第28条、第29条、第30条)です。
カサンは、尊厳、平等、自由、連帯の基本原則を含む第1条および第2条を基礎ブロックとして構想しました。世界人権宣言がなぜ必要なのかを説明する前文を階段として彼は考えました。第3条から第27条は4つの柱です:第一に、個人の基本的権利;そして市民的および政治的権利。続いて霊的、公的及び政治的自由;4番目の柱は社会的、経済的および文化的権利に捧げられます。第28条から第30条は – 社会に対する個人の義務、および他者を犠牲にして一部の権利を特権化することの禁止、または国連の目的に違反することに関係し − カサンの古典的なギリシャの神殿の三角形のペディメントを形成します。
1948年にUDHRが採択されてから何十年にも渡って、「自由で公平な世界」を成就し、平和を維持するための主要な方法のひとつは国際平和を通してであると一般的に受け入れられていました。1966年、国々は、国際人権規約を形成する上で、UDHRに加えられた他のふたつの重要な文書、すなわち、市民的及び政治的権利に関する国際規約と経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約を採択するために集まりました。
旧ソ連圏と米国主導の西側諸国が世界支配のために戦っていた冷戦時代でさえ、さらなる人権条約が採択されました:あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約(1965年)、女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約(1979年)、拷問等禁止条約(1984年)および児童の権利条約(1989年)。これらすべての拘束力のある法律は、何年も以前の、世界人権宣言に定められた原則に堅固に根づいていました。
しかし、近年、一部の国々は、全般的に人類の福利より自国の利益を過度に主張することから、多国間主義への信念がほつれ始めています。国連人権高等弁務官ミシェル・バチェレットは次のように述べています。「今日の深刻な危険は、人権を守り紛争を防止する目的で設定された多国間枠組み全体を弱体化するどころか破棄しようとする試みです。ますます多くのリーダーたちが、もはや人権を尊重していると装うこともせず、しばしば国家安全保障という口実のもと市民社会を取り締まることに努めています」
クリスティーヌ・ラガルドIMF専務理事の見解によれば、世界のリーダーたちが直面する問題は:「私たちは世界家族として協力するのでしょうか。それとも、偏狭さの溝を挟んでお互いに対立するのでしょうか?」彼女が提案した答えは、「国際協力への新たなコミットメント;個人的な利益より世界の利益を優先すること;多国間主義」でした。
攻撃的な国家主義は人権の尊重に影響を与えます。自由で公平な世界への権利は、国内および国家間で平等な機会および成果を促進することの重要な必要性を意味します:「不平等と差別は、これまでにないほどより豊かでありながらもより不平等な世界が今日直面する決定的な課題の一部です」と国連の開発権の専門家サアド・アルファラルギ氏は述べました。
第28条が述べている国際秩序を実現するための重要な手段である国連人権団体と独立した人権専門家はますます攻撃されており、そしてまた時折、彼らに協力する人々も攻撃されています。ミャンマーの人権に関する国連特別報告者ヤンギー・リー氏は、彼女自身脅されたことがあり、2018年の総会でミャンマーを訪問した際に、彼女と話しをした人々が深刻な報復にあったことを伝えました。人権理事会の形として国家によって築かれたメカニズムに協力する義務を国家自体が著しく無視するなかで、それは他の国連特別報告者によって共有される経験です。
各国の協力の失敗は地球を破壊する可能性がある、とアントニオ・グテーレス国連事務総長は警告しています。気候変動への取り組みに欠けているものは、「リーダーシップ、そして切迫感と思い切った多国間の対応」だと2018年に彼は述べました。
エマニュエル・マクロン仏大統領はまた、「国家主義は常に敗北を招く」と述べ、世界の危機を解決するために「対話と多国間主義」を呼びかけています。2018年に国連総会においてマクロン氏は「歴史の破綻を受け入れない」よう世界のリーダーたちを促し、「子どもたちが見ている」とつけ足しました。
第29条:社会に対する義務
- すべて人は、その人格の自由かつ完全な発展がその中にあってのみ可能である社会に対して義務を負う。
- すべて人は、自己の権利及び自由を行使するに当っては、他人の権利及び自由の正当な承認及び尊重を保障すること並びに民主的社会における道徳、公の秩序及び一般の福祉の正当な要求を満たすことをもっぱら目的として法律によって定められた制限にのみ服する。
- これらの権利及び自由は、いかなる場合にも、国際連合の目的及び原則に反して行使してはならない。
これまでのところ世界人権宣言(UDHR)は、人間として生まれた各人が当然持つ権利に集中してきました。現在、第29条は、権利の必然的帰結は義務だと述べています。 私たち全員が他者への義務を負い、彼らの権利と自由を守らねばなりません。
UDHRが起草されている間、国連へのベルギー代表者であったフェルナンド・ドゥフース氏は、第29条の最初のパラグラフは「利益の公平な交換を必要とする個人とコミュニティの間で、一種の契約を大変適切に確立した」と述べました。
第29条はまた、権利は無制限ではないと述べています。もしそうであったなら、社会的バランスおよび調和は不可能です。1945年、国際社会を代表するために国連が創設されましたが、第29条は、その国際社会の権利と権利の行使を結びつけることを求めます。
初期の2つのドラフト・バージョンには次の規定が含まれていました:「これらの権利はすべての人の平等な権利によってのみ制限される」 および「人は本質的に社会的であり同胞の人間への基本的義務を持つ。それゆえ、各人の権利は他者の権利によってのみ制限される」
どちらのバージョンもその元来の文章は残りませんでしたがそれらが意味するところは最終版に近く、「彼の権利と自由の行使において、他者の権利と自由に対する十分な認識と尊重を確保するためだけの法律によって決定された制限をすべての人が受けるものとする」と述べています。
個人レベルでは、自己の権利を行使するにあたり、他者の権利を侵害すべきでないことは長く認められてきました。 法哲学者による1919年の有名な明確な記述によると:「あなたの腕を振る権利は相手の鼻が始まるところで終わる」
また、あまり知られていないのは、人権宣言の権利は当然「人権と義務の法」だった可能性があり得るということです。国連の初代人権部長であったカナダのジョン・ハンフリー法学教授は、UDHRの最初の草案のインスピレーションをもたらした多数の国家憲法を精査しました。彼の元の草案は、権利の行使は「国家の公正な必要条件」によって制限されていると述べました。後で見るように、そのアイデアは、他の起草者によって問題があると考えられました。
1948年12月10日にUDHRが採択される8ヶ月前に、 コロンビアのボゴタで人の人権と義務に関する米州宣言が合意されました。
これは、国際的な人権保護の発展に関する重要な文書でした。公正な裁判の権利など、その28条項の一部はUDHRにも記載されています。その他、「常に両親を尊重する」という子どもの義務などは記載されていません。
その当時、ラテンアメリカは大部分が民主的であり、軍事独裁は数十年先でした。それでも他国からの代表は、政府が予想不可能な受け入れ難い方法で人権を制限するような「義務」を使うかもしれない危険性を認識し、その概念を受け入れることを拒否しました。
彼らは特に、米州宣言の「法と自国の権威者の合法的な命令に従う」義務、そして「防衛および保存に必要な公役および兵役を提供する」義務について懸念しました。
これは、個人的権利と自由の繊細に織り交ぜられた構造全体をつぶすかもしれないパンドラの箱を開くと彼らは感じました。
もしこれらの義務が、表現、結社、宗教および政治参加の人権と対立したらどうなるでしょう?UDHRの起草者は、米州宣言のなかの一部の文章(そしてUDHRの初期のドラフトに登場した一部の文章でさえ)が、個人の権利への国家による勝手な制限を許すことを恐れました。
1948年以来、国際法学は、一部の権利を制限することは完全に不可能だということを、そして他は特定の条件下でのみ制限することが可能だということを明確にしており:制限は法律を通してのみ規定できます; それらは国際法にリストされている目的のひとつを果たせねばなりません;そして、それらは重大度と強度の点で目的に比例していなければなりません。
国連人権高等弁務官ミシェル・バチェレットは、「ますます多くのリーダーたちが、もはや人権を尊重していると装うことをせず、しばしば国家安全保障という口実のもと、市民社会を取り締まることに努めている」と警告しています。それを通して、「民主的社会における道徳、公序、一般の福利の公正な必要性」によって個人的権利が法的に制約されることが可能だという、第29条に含まれた観念を彼らは歪めているのです。
それだけではありません。彼らは、「国連の目的と原則に反する」べきでないことを強調する、第29条のまさに最後の言葉を無視しています。
第30条:権利は不可侵である
この宣言のいかなる規定も、いずれかの国、集団又は個人に対して、この宣言に掲げる権利及び自由の破壊を目的とする活動に従事し、又はそのような目的を有する行為を行う権利を認めるものと解釈してはならない。
欧州人権裁判所のエリザベット・フラ・サンドストレム裁判官は、世界人権宣言(UDHR)のどの権利が最も重要かと尋ねられました。「生命?自由?民主主義?選択しなくてよいだろうことを願います」と彼女は答えました。
権利は不可分であるというこの考え方は第30条の中心です。UDHRのすべての権利は互いに関連しており、すべてが同じように重要です。それらは遵守されねばならず、ひとつの権利が他のどの権利にも勝ることはありません。これらの権利は、すべての女性、男性、子供が生まれ持ったものであるため、階級制にしたり単独で行使されることはできません。
私たちが第28条について考察した際に見たように、世界人権宣言はギリシャ神殿のポルディコとして考えることができます。どの要素をひとつ取り去っても、ポルティコは崩壊します。このたとえでUDHR起草者ルネ・カサンが暗示したように、構造全体を結びつけるのは第28条から第30条です。
第30条は「暴君に対する制限」と呼ばれてきました。「それは、前のすべての条項の権利への国家または個人的干渉からの自由を私たちに与えます。しかしながら、国連の目的に反して、私たちはこれらの権利を行使できないこともそれは強調しています。第2次世界大戦の傷のなかで取り組むと同時に、起草者は、ドイツでファシストの権力が、表現の自由および他の権利や自由を犠牲にしてでも、選挙に立つ自由を活用することによって復活することなどを防止したいと願いました。ヒトラー政権によって課せられた残虐行為の多くが、効率的ながらも基本的人権を侵害する法律制度に基づいていたことを鋭く認識していました。
起草者は、各国の残虐行為を防ぎ、新たな戦争またはホロコーストを防ぐための国際法的枠組みを求めていました。国民を適切に扱う国家は、他国に対する攻撃的な意図を持つ可能性がより低いと信じました。
彼らは驚くべき成果を生みだしました。戦争から回復する真っ最中で冷戦が始まったばかりの時、国連の初期段階において、– 完全でないにしても、国際関係において前例のない – 言語、国籍、文化の違いを超えた文章への同意に漕ぎつけました。
この成果の大きさは、UDHRと共に、国際人権規約:経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約と市民的及び政治的権利に関する国際規約を構成する別のふたつの文書への合意に達するまでにさらに18年かかったという事実によって強調されます。そしてその後、十分な国々がそれらの実行を批准するまでにさらに11年かかりました。
1948年、殆どの人々は、世界人権宣言は法的義務でなく道徳的義務を生みだしていると考えました。しかしながら、ベルギーの首相カルトン・ドゥ・ヴィアールは、UDHRが「前例のない道徳的価値」だけでなく「法的価値の始まり」も持つと信じました。UDHR起草者の主要メンバーのひとりであるカサンは、「法的能力」を持つ国際グループによる最初の宣言であったことから、それは法的な地位を持つと信じました。
世界人権宣言は条約ではないため国に対する法的義務を直接もたらしません。しかしながら、国際社会のすべてのメンバーによって共有される基本的価値の表現として、それは人権法の発展に大きな影響を与えました。その規定は女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約(1979年)、拷問等禁止条約(1984年)、および児童の権利条約(1989年)を含む、他の多くの国際文書によってさらに詳しく説明されました。
何十年にも渡って一貫して各国が世界人権宣言を行使してきたため、その構成要素の一部は慣習国際法へと発展したと主張する人もいます。そのため、例えば拷問の全面禁止などに対して、それらは拘束力があるという見解を多くの学者や弁護士が持っています。UDHRは、人権の概念を拡大および深化するための例外的に柔軟な基盤となってきました。今日、それは法律のなかに、地域的な政府間機関および無政府機関のDNAのなかに、そして人権擁護者のなかに埋め込まれています。しかし、一部の弁護士が世界人権宣言に法的拘束力があると見なしているという事実は、勿論、それが一様に遵守されるという意味ではありません。
しかし、過去70年間で顕著な進歩がありました。「世界的に健康や教育を含む人間の生活は非常に改善されました」と国連人権高等弁務官ミシェル・バチェレットは言います。「政府はどのように国民に仕えるかということに対しての理解を深めました。企業は人権擁護と人権侵害の防止の責任をより認識しています」
おそらく、エレノア・ルーズベルト夫人は、起草プロセスの舵を取り、宣言の目的と影響を最もよく表明した不屈の人権擁護者のチャンピオンでしょう。人権はどこから始まるのかと彼女は聴衆に尋ねたものです。彼女の答えは:「小さな場所で、家の近くで – 本当に近くて、本当に小さくて、それはどの世界地図上でも見えません。それが、すべての男性、女性、子供が、差別のない平等な正義、平等な機会、そして平等な尊厳を求めている場所なのです。これらの権利がそれらの場所で重要でない限り、どの場所でも重要ではないのです」
70年後の今日、世界で最も翻訳された文書である世界人権宣言は、世界中の村や町で、必ずしも自覚があるわけではありませんが、人権を彼ら自身のコミュニティの生活のなかで現実にしようと戦うすべての人々にとって、今なお活気に満ちた勢力なのです。
さらなるリソース:
完全ファクトシート:https://www.standup4humanrights.org/en/download.html
オリジナル・ソース: Office of the United Nations High Commssioner for Human Rights
Image credit: Some rights reserved by United Nations Photo, flickr creative commons