真に普遍的で無条件のベーシックインカムは、国連の後援のもと調整されるなら、最終的にすべての国で実行可能です。しかし、まず第一にこれは、世界資源のより公平な分かち合いに基づいて、飢餓と不必要な貧困を根絶するという目標への比類のない一般人の支持にかかっています。それが、すべての人のための基本的人権をベーシックインカム政策が支持する、唯一の道だとモハメッド・ソフィアン・メスバヒは記します。そしてこの動機のもと追求されるなら、それは「すべての国を超えて人類がある」ということを本質的に意味する高潔な開拓的道なのです。
コンテンツ:
編集者の序文
イントロダクション:「誰もが生きる権利を持っている」
パートl: ディストピア的未来の脅威
パートll: 人々の戦略に欠落した要素
パートlll: 世界変革の内なる側面
パートlV:決定的な普遍的ビジョン
エピローグ:最終的な励ましの言葉
注釈
編集者の序文
この本は、通常の政治的および経済的分析よりさらに包括的展望から危機的な世界問題を探究した現在進行中の考察シリーズの一部として、シェア・ザ・ワールズ・リゾースィズ(STWR)によって執筆されましたが、一般的に普及した知的論考をもまた詳しく考察した、モハメッド・ソフィアン・メスバヒによる最近の著作「コモンズ」および「分かち合いの経済」の現代的思想に密接に関係しています。ユニバーサル・ベーシッックインカムについてのユニークな探究における真に「普遍的」または世界的意味でのメスバヒの明確なビジョンを僅かな提唱者が熟考するに過ぎない一方で、この浮上するテーマについての論考はSTWRの関心事の核心に恐らく最も近いものでしょう。
世界のベーシックインカム・ムーブメントの活動家に主に向けられると同時に、このテーマに関心のある誰もが読むことができ、著者の遠大な所見が役立つことが望まれます。これを念頭に置いて、さらに技術的な課題のどこにSTWRが位置するかを明瞭にするために、そして(多少物議を醸すにもかかわわらず)この重要な政策提案に関心をもつ新参者のために幾分か資料を提供するためにも、文中の文脈のいくつかを説明した注釈が最後の部分につけられています。
メスバヒの他の発行文献を読んだ読者にとっては、同じテーマ、特に世界人権宣言第25条を支持する世界規模の断続的デモンストレーションの必要性へのフォーカスがここでさらに掘り下げられていることが明らかになるでしょう。結局のところこれが、社会運動組織としての私たちの設立目的と基本的ビジョンなのです。しかしながらメスバヒはまた、彼の言葉を借りるなら、世界変革の「内なる側面」または「心理的−霊的」側面にフォーカスを絞ることによってこの提案を明確にすることを求めます。従って、世界資源を分かち合うためにすべての人とすべての国が結束する変革的ビジョンを実現することからいまだほど遠いという事実をも考慮して、同じテーマと所見を意図的に繰り返すことが必要となりました。
もしこの考察のシンプルな論理が開かれたハートとマインドをもって熟慮されるなら、共鳴的な読者は、回転する一定のテーマの繰り返しが、より明確な解決策の感についてだけでなく、世界の問題の性質についてのより大きな認識をもたらす働きをももつことを見だすかもしれません。その解決策は、メスバヒが執筆を通して繰り返し主張するように、「万人のハートに永遠に埋め込まれ」ているのです。この点から、ここで提起されているビジョンの実現可能性は知的議論の問題ではありません。なぜならそれは、個人そして集団として、私たちのみが最終的に対応し、共同で創造することのできる行動への呼びかけ以外のなにものでもないからです。
「私たちはすべてを試みてきましたが、神性、ひとつの人類、ひとつの愛に対する認識のなか、国々が奔放に彼らの余剰の富をわかち合わない限りなにも達成できないでしょう。それは、私たち全員が探し求めてきた鍵であり、常に万人のハートに埋め込まれていたのです」
分かち合いの原理を具現化する経済政策についての浮上するすべての政治的討論のなかで、そのユニークさとシンプルさにおいてひときわ際立つひとつの提案があります:それは、ユニバーサル・ベーシックインカム(UBI)への要求です。増大する文献が、主要な先進国および後進国双方におけるその実用性はもとより、その不朽のアイデアについての倫理的および哲学的正当性を提唱しています。しかしながら現代のその議論で絶え間なく引き合いにだされている小規模な予備計画および限られた国家制度にもかかわらず、現在までにベーシックインカムについての革新的概念が間違いなく普遍的な形態で実現されている国はありません。従ってこの追求の目的は、永久に適切な生活水準を保障するために十分な無条件の定期的現金トランスファーを各々が受ける権利を常にもつべき地球のすべての人にとっての、「貧困からの解放」という鼓舞的ビジョンを達成する展望を詳しく考察することです。[1]
公共サービスとその他の社会福祉の普遍的提供と並行して思い描かれるべき、この見たところユートピア風の夢を、この先すべての国で達成できると信じることは現実的なのでしょうか:無料の医療および薬品;すべてのレベルの無料教育;無料チャイルドケア;老人ケアおよび障害者の十分な補助金;適切な住居入手のための十分な普遍的援助;補助金を受けた公共事業および良質の公共交通機関;そしてその他数々。[2] 包括的な世界世論の支持のなか国連の監督の下、各国内で基盤となる法として世界人権宣言第25条の必要性を私たちは以前探究しました。[3],[4]この観点からベーシックインカムを憲法上の権利として謳うという展望は、万人のための第25条の全面的な実施を保障するために最も確実な手段のひとつなのでしょうか。[5] そして尊厳ある生活のために必需品へのアクセスを国民に提供することをすべての政府が保障するために、国際レベルで協力し合うところの真に普遍的意味でのベーシックインカムの権利が実現されることを最終的に私たちは予想できるでしょうか。
疑いなく、この率直な社会政策手段を遂行することの意味合いは、特に国際的な再分配メカニズムのある形態を通して世界の貧困を永久に根絶する可能性を考慮する時、計り知れないほど革新的であり得ます。[6]それにもかかわらず、異なった国々でどのようにベーシックインカムが制定されるべきかということ、または対象絞り込みや厳しい条件についての議論、あるいは実に、累進課税や革新的な手段を通して資金を供給するためのオプションについての前向きな討論の周りの技術的考察事項を詳細に検討することは、私たちの追求の意図するところではありません。世界全体の収入調査つき福祉制度の非効率性および欠点を考慮すると、21世紀の新しい収入分配システムの正当性を既に十分な文献が説得力を持って論議していることは言うまでもありません。[7]断続する経済成長に基づいた完全雇用という確立された社会目標を通して、現実のところもはや対応不可能な貧困や不平等への取り組みのための新たな解決法が必要とされることに恐らく読者が既に同意していると想定します。所得と賃金労働の関係を切り離すことが最終的に必要性となることは、多くの説得力ある理由のため予測が可能です。特に、増大する技術変革のプレッシャーと不平等な経済的グローバリゼーション・モデルなどです。[8]
この分析に基づいて、すべての国におけるベーシックインカム導入のための目立った議論は − 適切な生活水準を保障するために可能な限りの高額を目指しており − 認識の高い学者、アクティビストおよび政策提案者によって極めて真剣に受け止められるべきです。[9]そのような権利を誕生から実現する道徳的正当性は、私たちのオーガニゼーション シェア・ザ・ワールズ・リゾースィズ(STWR)設立時における理念の中核です:地球は万人の共有遺産であるゆえそれは、平等主義の原則に従って自然の生産物を平等に分配し保護する責任を社会に与えます。この論理的根拠は、トーマス・ペイン、ヘンリー・ジョージ、G・D・H・コール、その他多くの著名人による著書に特に反映されています。彼らは、土地と天然資源を、社会全体と古い世代の複合労働、創造性および業績から常に生じる私たちの集合的富の一部として様々に考えました。[10]従って、経済的権利として全国民に支払い可能な「社会的配当」政策を策定することによって直接実現され得る、私たちの(今日の技術進歩の恩恵を含んだ)共通遺産の実りを万人が分かち合う権利を持つべきだと論議することは理にかなっているのです。[11]
この崇高な目標をどう達成するかということの背後にある根本的な原理はこれ以上平明であり得ません:すべての国が、(各自の手段と能力に従って)社会全体のメンバーによって促進および供給される、万人の不可欠なニーズを提供できる共同資源の貯蓄をつくる必要があります。 そのような歴史的な達成がどのように脆く部分的であるかもしれなくとも、その原理が多くの社会および経済制度のなかで機能しているのを既に私たちは目にしています。しかし、人類の進化過程を未来世代のために守るには、分かち合いの原理がすべての国、すべての地域、そして遂には全世界のコミュニティにおいて経済活動の基盤として適応されねばならない時がきました。従って、通常の政治的および学術的観点からだけでなくこの観点からも、万人に完全なベーシックインカムを分配することの意味合いを私たちは探求していきます。
さらに総合的な見解を基点として、この痛ましく分割された世界における成熟さと責任だけでなく愛の表現として、合意された新社会制度を制定する長期的取り組みについても考察できます。UBIの最高のビジョンを達成するという考えそのものを心に抱くこと自体が、その人に内在する成熟さ、責任および愛から生じる聡明さと良識の表れです;この甚だしく不平等な時代に、「誰もが生きる権利を持っている」と言うことを抑えられない良心以外なにに UBIの方策が反映され得るというのでしょうか。世界人口の少数派の間で非常に多くの富と物資が不平等に分かち合われていることは明白であり、従ってベーシックインカム・ムーブメントの参加者の多くは、世界はもっと自由でもっと歓喜に溢れた創造的場所になり得るのだという直感的考えによって動機づけられます。従って、 UBIや多岐に渡る他の再分配方策を通して実現されるように、分かち合いの原理を経済問題に適用するという考えそのものは、世界人権宣言に謳われる熱望に確固とした実質性および構造を与えるということです。そのようなレンズを通して考察される時、UBIの意味は「生きる権利」をただ保障するということだけではなく、「正しい人間関係」が日常生活に定着した現実となるまで、世界の社会的および経済的情勢のなかにバランスを生む術としても理解できるのです。
パート1:ディストピア的未来の脅威
複雑で知的な議論に頼ることなく、平明な常識的論理を使って、世界中でUBIの最も完全なビジョンを達成する展望をここで詳しく見てみましょう。表面上、普遍的社会福祉システムに資金を供給するための、十分な歳入を既に生むことのできる確立された租税制度を持つすべての先進国では、少なくとも理論上その達成は可能なように見えます。[12]しかし、ここで私たちは適切な疑問を持って自問せねばなりません:全国民の共通のニーズを自発的に優先するようどこかの国の政府に依存できるのでしょうか。21世紀の社会保護の歴史において何百万もの人々の生活の著しい改善が証言されるかもしれませんが、億万長者や大企業によって絶えることなく蓄積される莫大な富にもかかわらず、現在、緊縮経済、公共サービスの劣化、大部分の国々で拡大する貧困の風潮のなかで現在私たちは身動きできないままです。
歴史上人類は、これまでにない程の富と資源を生産しているにもかかわらず、公共財の普遍的提供や無条件のキャッシュトランスファーを通して万人の基本的社会経済権利を保障するために努力するよりむしろ、殆どの先進国は兵器販売と不公平な貿易協定を通して国際的競争力の強化に気を取られたままです。従って、もし戦争の激化、または次の世界金融危機が起こったら、経済的分かち合いのためのこの控えめな提案はどうなるのでしょうか。貧困化した難民や移民の記録的流入に対するヨーロッパのリーダーたちの残酷な対応に既に目撃されたように、低俗な言葉「国家安全保障」が、政府の自国本位の優先事項を守るよう間も無く呼び覚まされるだろうことは確実です。
問われるべきもうひとつの疑問は、 私たちが商業化勢力として以前定義づけた抑制できない暗い影響によって社会が侵されている時、完全なUBI方策を実現することは今日現実的であるのかどうかということです。[13] 「グローバリゼーション」という言葉は、政治および経済制度を現在支配するこれらの勢力の不道徳的性質を述べるには不十分です。大衆消費主義またはいわゆる新自由主義的資本主義の結果として、それは誤解を招く学術的観点から解釈されがちであるにもかかわらず、多くのベーシックインカムの提唱者は確実にこの問題の大きさを理解しています。それはまるで私たちが、制御されない市場勢力によって気持ちをかき乱され惑わされてきたかのようです。そしてそれが、過去何十年かの間、私たちの社会、価値観および集団的行為を毒し商業化の広範に渡る影響を生じさせてきた根本的要素なのです。実に、世界問題の根底にあるのは、政治的イデオロギーや一定の経済組織様式だけでなく、商業化の無数の形態の影響を私たちが受けやすくなるようにする自分たちの自己中心的態度および思惑なのです。従って、殆どの基本的な心理アセスメントから、今日どの国であろうとUBIを実現することの最も高いハードルのひとつは、それが貧困者にとってであろうと富裕者にとってであろうと、社会構造と日常生活を支配する、利益と富の追求であることが観察できます。[14]
物質主義的、競争的および分割的行動に走るよう余儀なくさせる、これらの利益主導型勢力によって全員が多少なりとも条件づけられている時、誰一人として貧困に陥らないことを保証する完全なベーシックインカム政策をどのように保証するのでしょうか。無関心と呼ばれる、あらゆるところに浸透したこのメンタリティーが原因で生じる、兆候的な要素があります − その無関心は、政府官僚に汚名を着せられ処罰されるなどすべての結果を伴う、収入調査つき福祉制度の複雑な行政として実際に表現されます。この現状にうっかり追従することによって、全体に及んだ難局を長引かせることに私たち全員が一役買っている時、UBIの成功を妨げていると「政治的意志」の欠如だけを責めることはできないのです。
政府が公共資産を民営化し、独裁国家に兵器を販売し、外国の弱い属国を支配しようと絶えず策動している時、もしすべての国民に毎月無条件に現金手当が与えられたとしたらどうなると思いますか。密かな外交政策により死亡者と破壊を生みだすことを通して、多くの国が「生きる権利」でなく「殺す権利」という考えを事実維持しています。そして集団的無関心と追従を通して大衆の大部分がこのような政治家に投票し続けることによって、この事態のすべてを永続させる、確立された思考および態度にエネルギーを与えているのです。
従って、まるでより広範な世界問題が後でひとりでに解決されると期待できるかのように、例えば、$1000に価する金額を各成人に毎月配付することは十分なのでしょうか。この既存の社会秩序のなかで政府から要求するUBIの金額が増えれば増えるほど、それに比例して商業化、世界戦争および競争の動向が資源を巡ってさらに悪化することが予期されねばなりません。法律上の権利として私が正規に受け取る金額が増えれば増えるほど、政策立案への同じ容赦なく競争的な利益主導型を追求し続ける政府によってさらなるストレスと不均等が必然的に生みだされます。そしてますます機能不全になっていくこの社会のなかでさらなるストレスを経験すればするほど、私は経済的保障をさらに求め世界問題に対してますます無頓着な反応を示すでしょう。
それが、たとえ仮説的であろうと悪循環の本質です。しかし現実には、これらの致命的動向が一斉に悪化する一方で、ベーシックインカムはどれだけの金額を必要とするのでしょうか。なぜなら、商業および軍事戦略を政府が頑として続ければ続けるほど、縮小し続ける公共圏の生活はますます高価になっていきます。最終的に、どれだけ質素に生活しようとしても、$1000ちょっとでは、誰も十分な食糧、医療、住居および教育への基本的権利を充足できません。そして、核兵器の拡散、気候の激動および復活する国家主義的態度の時代において、今日の政府が軍事費を拡大するよりむしろそのような額の支払いをすべての国民に平等に再分配する可能性があると、私たちは本当に信じるのでしょうか。
政府と公衆が、なされるべきことについて合意できさえすれば、国家レベルのUBIの実現がどれだけ容易であり得るかを私たちは目撃するかもしれません。対立する個人主義的競争と利己主義の原理によって駆り立てられた複雑な社会において、それがどう不可能になろうと、より平等で包括的な社会を成就することはいつでも、集合的手段を通して詰まるところは資源を分かち合うという非常に平明なアイデアに基づいてきたのです。
道端で猛烈な言い争いをしている夫婦に我を取り戻させるためには外部からの調停者が必要だと想像してください。ついでその夫婦間の愛の絆が修復されるかもしれないという大まかな例えは、善意とお互いを支え合うという同じ価値感を双方が示しさえするなら − 政治家と一般大衆の間の関係に当てはまるかもしれません。ひいては恐らく、万人のための食料と資源が十分にあり、誰も極貧で生活することや飢える必要はないのだという常識的理解に基づいた全政治体を通して表現される、分かち合いの原理が目撃されることでしょう。しかし悲しくも私たちは、権力に飢える政府の現実について、そして社会契約の根本的基盤となる経済的分かち合いに賛同する、数少ない政治家を支持することに大部分失敗している多層的な国民について、責任を持って明確にせねばならないのです。
従って、衝突し合う政治的「主義」と一般大衆の自己満足的な無頓着さの間の戦いによって可能にされ、商業化が世界情勢を支配するための条件が長期間常に整えられてきました。商業化と制度化された貪欲を促進するすべての法律によって社会が余りに複雑化されたことから、たとえどのような連邦議会や国会議事堂を通しても、正しい意図のなか最高のビジョンを掲げた政治家でさえが真のUBI政策を推し進めるには無力です。彼らを断固として支持する世界の人々なくして、多国籍企業に常に媚びへつらい続ける無関心な政府の前で、最低限所得保障の先駆者はアイデアを乞うまま放置されるのです。そして、昔ながらの利権、分極したイデオロギーおよび公衆の無関心によって維持された分裂のなかで、これらの政権を説得する可能性はあるのでしょうか。万人が最低限の生活水準を享受できる十分な資源が世界にあるかもしれませんが、商業化の統制パラダイム内でその富をより公平に分かち合うことは不可能です。社会全体の著しい意識の拡大と相まって、政治的リーダーたちの間で大きな考え方の変化がない限り、切実な可能性がユートピア的不可能性として残るだろうと言えるかもしれません。
これは、UBIの必要性がかつてこれ以上重要であったことがない、新しいテクノロジーが何百万もの仕事を迅速に奪っているこのオートメーション時代の矛盾した状況を要約しています。現在の動向が続く限り、技術的な大量失業の発生から利益を得るのは傾向として大企業です。なぜなら、まとな賃金を払うことや、労働者が苦戦の後獲得した権利に従う必要がもはや彼らにはないだろうからです。これを預言的な言葉として考えてください。失業した貧困者の不安定な境遇や共有の富の正しい再分配に基づいた経済モデルの実現を通して、正しい人間関係を段階的に確立することに市場主導型の大企業の関心がないことは確実だからです。不安定な労働者の確立された権利を守ることより、福祉手当や雇用規制を大幅に削減することに政府の関心がある時、この搾取的システムの領域内からベーシックインカムを実現することを彼らに期待できないのは明らかです。
これらすべての自己破壊的傾向は、世界人口の断続する成長が強固なUBI達成の最大の障害となるまで急速に悪化するよう定められています。これは率直な経済の実例です。毎年何倍にも膨れ上がるかもしれない合法的居住者の生活に十分な配当の流れをどの政府が保証できるのでしょうか。疑いなく、今世紀110億を超すと予測される人口増加は、均衡の取れた持続可能な世界への多くのビジョンの機先を制するでしょう。例えば、途轍もない交通量のため国民がもし道路を分かち合えないなら、人口全体で各国家の富を平等に分かち合う希望は余りないのです。あるいは、すべての国でUBIを実現するための最優先条件として、世界的な一人っ子政策を私たちは進んで受け入れたいのでしょうか。同時に、最大限の社会国家に資金を供給する、増加し続ける歳入の必要性を維持するために、増加し続ける富の蓄積を求める億万長者の断続した繁栄を私たちは進んで受け入れたいのでしょうか。確実に、世界自体がその資源に対する断続的攻撃を受け続けることができなくなるまで長くかからないでしょう。そしてそれは、現在のその政治的実行不可能性にかかわらず、UBIの展望を数字の上で、そして物理的に不可能にするでしょう。
もし上記の論理に同意するなら、このシンプルな政策は、時間の経過とともに必然的に頽廃する限られた手段でのみもっともらしい成功を収めることができると結論づけねばなりません。蔓延る商業化、軍事化および緩和されない人口増加をともなったこの退廃したパラダイムのなかで少しでも可能性があると仮定しても − 先進国における普遍的な社会福祉の元来の原理および理念がまさに広く頽廃しているように、ベーシックインカムの導入も頽廃させられその変革的可能性から逸らされるでしょう。主要な多国籍企業が多くの政府よりさらなる経済力と権力を持つことを踏まえると、支配層の政治家たちが生みだすどのようなベーシックインカム構想も、恐らくはフリードリヒ・ハイエクとミルトン・フリードマンのような自由市場主義イデオロギー信望者のリバタリアン的見識に従い、可能な限り低く設定されると考えられます。もし抑制されないまま放っておかれるなら、恐らく、私たちが先に概説した傾向は、一握りの人々の目に余る贅沢と並んで急上昇する失業率と経済的不安定の必然的結果であり得る、社会不安や暴力的な蜂起に対応してわずかばかりのベーシックインカムを実施することを国家が余儀なくされるようなピークに達するでしょう。
次いで私たちは、従属する人々が法と秩序を維持するもとで運営される、全体が刑務所のような、ディストピア的未来のビジョンについても思い巡らせねばなりません。実に、長い懲役に服するために囚人が刑務所に入所する時、彼には幸せも将来への希望もないかもしれませんが、少なくとも生存のために必要な必需品を提供されることは確かです。既に世界の多くの人々にとって、特に、グローバル・サウス全体で最も貧困化した村やシャンティタウンに住む人々にとって、明日やってくることへの希望はなにもありません。ある意味で、もし住むところもなく十分な食べ物を手に入れることができないなら、多くの人々にとって囚人程の権利さえありません。そのような極貧者は、世界資源が万人のものであるべきことに理屈上は同意するかもしれませんが、それらの資源がこの地球の住人のなかのますます減少する少数派の割合によって蓄積され支配されている時、正当で当然の権利を受けるどのような希望が彼らにあるのでしょうか。
明らかに、社会的に排除され剥奪された人々の数はこれらの一般化した状況のもとで急増し続け、最も貧しい社会および最も富裕な社会双方で、失望とさらなる困窮をますます多くの層の人々にもたらすでしょう。次第に縮小し民営化される社会福祉システムと併せてもし政府の唯一の対応が国家内での最低限レベルのUBIであるなら、ひいては21世紀にこの先なにが待ち受けているかという見通しは酷く暗くて不吉です。80年後に過去を振り返って、福祉国家が存在したことは奇跡であったと考えられるかもしれません。なぜなら、その時には、従属させられた多数派の一般化された貧窮から切り離された現実に存在する、特権的なエリートの富を守ることだけに献身する世界で私たちは生活しているだろうからです。
パート2:人々の戦略に欠落した要素
国家から全国民に支払われる、生活に十分な配当の流れについてのアイデアが、この時代の展望を持った説得力ある提案だと繰り返すことは大切ですが、強力な企業勢力、特に軍需産業から政府が恩義を受けている時、より自由な社会を創造するための方策手段としてUBIを実現することは非現実的であり続けます。「人を超えた利益」の優勢性は、何十年もの間、政治的活動家が従事してきた途方も無い戦いを象徴しており、そしてそれがこれほど不吉で緊急を要したことはかつてありませんでした。それゆえ私たちの追求は、最先進国だけでなく、最終的に世界のすべての国でハイレベルのUBIが実行可能そして腐敗しない展望となるように、支配的な商業化パラダイムをどのように変革できるかということに関連します。
これを念頭において、「生きる権利」を保証することがベーシックインカムを促進する第一の理由だと思いだすなら、第一の考慮事項はUBIへの目標のための広大な公衆の支持の必要性となります。私たちが論議したように、たとえこれは、ある賞賛に価する政治家が試みたとしても、この急進的な提案が既存の政府によって支持されることは決してないでしょう;従ってそれは、一般人自身が目指す目標でなければなりません。また、政治的正統主義および社会的態度に根本的な変革をもたらす唯一の方法は、人間の極度の剥奪の根絶のために、止むことのない莫大なデモンストレーションをすることであり、そしてそれがベーシックインカムの解放された形態を達成することへの道の始まりなのです。それが、論理的かつ直感的観点からUBIの正統性に関連して、今から私たちが探求し始める、STWRの創設時の関心事を要約するビジョンなのです。
私たちを動機づける関心事が、真に普遍的意味でのベーシックインカムの達成だと仮定し − なによりも、貧困に陥ることをなにびとであろうと回避させる経済的権利として − この長年の危機の凄まじい規模を認識することから始めねばなりません。富裕国の何百万もの人々が生活必需品への十分なアクセスを剥奪されているかたわら、慢性栄養不良に苦しむ人々のおよそ全員が貧困国、特にサブサハラ・アフリカや南アジアで生活しています。これらの地域における多くの国で人口の三分の一以上が飢えに苦しんでいます。そして多くの紛争多発国では現在過去最高数の人々が救命食糧および医療支援を必要とし、1945年の国連システムの発足以来最大の惨事の一部を占めています。
近年におけるこの著しい食料不安の激化以前でさえ、推定4万人以上が(その大多数が低所得国において)回避可能な貧困関係の原因から毎日亡くなっていました。[16] それにもかかわらず − 先進国で主に、想像を絶する量の食糧および物資を過剰供給および無駄にしており − 酷くそれを必要とするすべての人々にいき渡るだけの十分な食べ物、薬、お金、そしてその他の資源があることを私たちは知っています。豊かさのなかの貧困および飢餓のなかの贅沢というこの悪化する現実は長い間存在してきたかもしれませんが;大規模で体系的な方法でそれに取り組むことを政府に要求するために、無数の市民が結束しない限りこの状況を変えることはできないでしょう。
何日間、何週間、そして何年間でも断続する大規模なデモを通してのみ、経済的分かち合いおよびグローバル正義のための人々の要求に耳を傾けることを、選出された代表者たちはやむなくされるでしょう。そして、私たちが知るように、万人にいき渡るだけの十分な物資があるのだということ、誰一人として極貧のなかで生き不必要に飢えることが許されるべきでないのだという常識的理解に基づいて、政府が他国と余剰資源を分かち合うことが私たちの要求の中心になければなりません。このようにして、余剰資源を分かち合うという考えは世界世論を統一するための鍵であり、「余剰」という言葉を強調することは非常に重要です。なぜなら、自分たち自身が家族を養い良い生活を送るために必要な資源を分かち合うことについてここで話しているのではないからです。自国内および外国で生存ギリギリのところで生きる人々の苦難に向けられた、世界的な貧困救済に取り組むために使用可能な余剰資源について話しているのです。
国際緊急プログラム実現の差し迫った必要性は、ウイリー・ブラントを議長として1980年に発表された国際開発問題に関する独立委員会報告への頻繁な言及を持って、この考察シリーズを通して何度も繰り返されてきました。[17] ブラント報告の旧式の経済的見解にもかかわらず、グローバル・ノースからサウスへの大規模な資源の移動への要求は、今日かつてないほど切迫しており重要です。世界の人道危機の巨大な規模を考慮すると、国際社会の「なくてはならない目標」として、絶対的貧困を根絶するための多国間の取り組みに政府らが全力を投球する時は既にきているのです。世界のリーダーたちがこの目標のために動員し計画するというサミットへのブラントのビジョンは市場勝利の絶頂期において脇に追いやられていたかもしれませんが − 詳細に至ってどう改正されようと − 旧式の経済および金融秩序が崩れ落ち続けると同時に、その時は確実にやってくるでしょう。[18]
現時点での私たちの考察において、ノース−サウスの発展と協力への新たなアプローチを特徴づける特定の政策について詳述する必要はありませんが、この幅広いビジョンのための指示を促進することは、国別でUBIを提唱することとは大変異なるのだということが明らかであるべきです。私たちが実際に望むことは、人々の主要な優先事項として貧困根絶の考えが何億もの人々の意識のなかに入り込み、そして文字通り皆がこの遠大な目標に対して意識的になるまで、世界中で始まる大衆のデモンストレーションの驚異を達成することです。できるなら、次のように宣言する新意識の突如の出現を想像してください:「飢餓をなくせ、不必要な死をなくせ!」ついで、飢餓の道徳的屈辱を最終的に撲滅するための国連の調整された対応をもたらす長期的試みのなかで、結果として起きるかもしれない大衆の活動とデモンストレーションのようなものをさらに想像してください。しかしこれは、国際サミット後に発表される通常の公式声明や曖昧な誓いのように政治的リーダーたちが自分たちの意図を公衆に説明するということに基づくべきではありません。この行動の原動力は、この最もシンプルな人間的要求を通して政府らに良識を思いださせる明確な意図を持って、どれだけ時間がかかろうと、日夜自発的に結集する善意の一般人でなければなりません。
時間的制約なしで起こるこの歴史的でき事なくして、世界規模のUBIの絶対的なビジョンを実現する希望は決してないと考えられます。スピーンハムランド・システム以後、リチャード・ニクソンのベーシックインカム保証プランや、もっと最近ではスイスの国民投票まで長く目撃されてきたように、その導入を延期するための言い訳を常に政策立案者は見つけるでしょう。分かち合いの原理が世界情勢に確立されない限り、そして「生存のための戦略」の一部としてグローバル・サウスへの大規模な資源移動への必要性を受け入れない限り、どのような包括的な措置を持ってしても真に普遍的なベーシックインカムが達成されることは決してないでしょう。
悲しいかなこれは、豊かな社会の殆どの一般市民の間でだけでなく、貧困国の裕福層の間でも痛ましいほど欠如している、世界問題への認識のレベルにも依存します。それにもかかわらず、恵まれない人々の回避可能な苦しみへの一定の共感的意識と心からの反応なくしては、物質的剥奪を根絶するための不可欠な方策手段としてUBIが最終的に持続される見通しは殆どありません。今日完全なUBI構想を達成することがどの国であろうと恐らく実現不可能であろう数多くの技術的理由があるかもしれませんが、結局のところ、世界の貧困の惨事的現実についての一般的認識や懸念の欠如が、包括的視点から見て最も基本的な要因です。
アメリカ人、フランス人、イギリス人、日本人およびその他の西洋化された国々の国内政治のなかで国民がますますどう分極化しているかを観察してください。それは、今日のすべての国を特徴づける、拡大する経済および社会的分割を反映しています。それらの分割と不平等をどう削減すべきかという問題は、選挙活動中の各政党の国内に重点を置いた優先事項に反映されるように、しばしば集中的な公的討議の的です。しかし、世界の異なった国の間および異なった地域の間の不平等について、特に、世界人口の半分にあたる貧困者の哀れな人生の可能性について公衆が見たり考えたりする傾向はありません。それにもかかわらず、世界資源を分かち合うことによってのみ、それらの国際的分割が癒されるのです。それは、UBIを各国で実行可能な政策手段にする最終的可能性を含んだ、他のすべての社会変革を惹きつける磁石のように象徴的に機能するだろうプロセスです。
興味深いことに、UBIのビジョンは、経済的分かち合いの論理を象徴すると同時に、通常、国内的視点からのみ考えられています。しかしながら、緊急な世界規模の分かち合いが意味するビジョンは、発展途上国での最低限所得保証を通して絶対的貧困を根絶するという考えに献身する、少数の組織を含んだ殆どのUBI支持者に部分的に支持されているに過ぎません。彼らの殆どは、資源の再分配の世界的プロセスが国連のすべての加盟国の間で起こるまでどこにも完全なUBI政策が維持され得ないことを認識することなく、自国内だけでの経済的分かち合いの断片的ビジョンを理解しているのです。
前述のように、そのプロセスを開始するための最も確かな方法は、政府間の緊急プログラムおよび国際経済システムの完全な再構築に国連が専心するまで、貧困が原因の苦しみを即刻根絶するために、一斉に声を上げ続ける各国の何億という人々の活発な参加です。すべての国で貧困の解決策としてUBIを要求することは、そのような画期的な目標を達成するための鍵をたとえ私たちが認識できないとしても、世界資源を分かち合うことへの無意識的な要求なのです。なぜならその鍵は、人類の大部分が声を揃えてこの目標を受けいれるまでは発見されないだろうからです。そしてそのすべては、最も貧しい同胞のニーズが私たち自身のニーズと同等に重要であることを理解できるようにする、私たち集団としての認識と他人への共感の著しい拡大にかかっているのです。
従って、どの国であろうと、すべての人のためのベーシックインカムの新鮮なビジョンを達成するための探求において試みるべき可能なルートがふたつあります。ひとつは、国家の激しく暴力的な抑圧を扇動する危険性を伴い、UBIに基づいた新たな収入分配システムを認めることを支配層に余儀なくさせる、相殺的な政治運動を築くことを試みる、高まる抵抗の道です。あるいは、世界人権宣言第25条に基づいて、完全に異なった形態のグローバル・ムーブメントを築くことであり − 万人のための十分な食糧、居住、医療および社会保障を率直に要求するという、抵抗最小限の道を選ぶことができます。[20]
これは、止むことなく世界中で断続する平和的抗議デモを通して、尊い第25条の復活を訴えるところの、STWRの最も重要な著書の手引きに私たちを連れ戻します。[21] 私たちの論理に関連した幾つかの側面を要約すると、統一された目標を持った世界的デモンストレーションの驚異が、発展途上国で苦闘する、大多数派である貧困者の基本的権利を守ることへの要求を通してでは決してなく、環境保護への要求を通して現在どのように頂点に達しているかということを私たちは述べました。[22] それにもかかわらず、想像を絶する規模でのそのような要求を通して世界情勢の軌道を最終的に変えることができ、そしてそれによって、革新的運動家が支持するUBIやその他無数の方策解決への扉が開くのです。
なによりも、大衆が第25条を宣言するという戦略は、無数の貧困者、極貧者、そしておろそかにされた人々に達するための最も確かな道です − なぜなら、その2、3行の控えめな文章のなかに謳われる人権は、誰よりも彼らのものであるからです。従って、もし西洋諸国がこのひとつの善意の目標のために絶えず勢いよく抗議するなら、ひいてはグローバル・サウス全体を通して、社会的に排除された地域で生活する貧困者もこの呼びかけをききつけ、願わくば彼ら自身が参加することが可能なのです。
恐らく、似たような理屈がUBIの共通目標に当てはまるかもしれません。なぜなら、国の法令に定められているように、定期的なキャッシュトランスファーから最大限の利益を受けるのは極貧者だからです。しかし、UBIのための抗議デモが、統一した世界的驚異として、ひとりでに拡大しないかもしれない多くの理由があります。まず、ベーシックインカムの権利を達成する政治は、一般的に、各国で社会政策が巧妙に作られ実施される国内レベルに制限されます。しかしながら第25条への要求は、生存するために必要な必需品を万人に保障することであることからその熱望において真に国際的です。最も保守的またはビジネス主導型人間でさえが、ベーシックインカムに対する彼らの見解に関係なく、そして彼らが促進するイデオロギーまたは政治的意見に関係なく、第25条には同意すると言うでしょう。
さらに、ベーシックインカムに関係する考えは、「インカム(収入)」という言葉自体によって浮き彫りにされるように、どのような社会でも主としてお金とパーソナルファイナンスに関するものです。しかしもう一方で、第25条に関係する考えは、道徳原理と集団としての私たち共有の熱望に関係しており、「本質的な尊厳と人類家族の全メンバーの平等で不可侵の権利は、世界の自由、正義および平和の基盤である」(世界人権宣言から)ということを認識しています。実に、UBI実現のための取り組みが、実際には経済学者や政策立案者のものである一方で、第25条実現のための取り組みは、従事するハートと社会のすべての階層の活発な参加に初めはすべてかかっています。そしてそれは、真意を理解するなら、日夜を通して繰り返し永続する結束した世界的デモンストレーションの驚異的な光景のなかで具現化されるように、心からのそれらの行動を通して、最終的に「聖なる経済学者」が出現するでしょう。
テクニカルな点からもまた、ベーシックインカムの提案に含まれていない、第25条の人権を保障することに関係した多くの政策的意味合いがあります。たとえば、電気、ガス、水道サービス、そして医療および教育など − 民主的管理下で普遍的公共サービスを提供する手段を政府はどのように生成すべきでしょうか。これらの不可欠なサービスがすべての先進国で保護および強化され、全国民の法的権利として堅固に確立されるためには、明らかに大規模な経済改革を殆どの政府が実施せねばなりません。これらの課題の複雑さのため、平明な方法でこれに関連した政策すべてを包括する遠大な政治的要求を呼びかけることは実際的です。第25条の傘下で、特筆すべき分かち合いの原理の多様性の美を反映する様々な政治的要求がなければならないことは必然的です。以下は、万人の基本的ニーズを充足するための要求に確実に含まれるべき項目の一部です:
- 軍事費とその他の有害な政府の補助金の向け直し;
- 不当な貿易協定の再交渉;
- 富裕者や企業の租税回避および脱税の取り締まり;
- グローバル・ガバナンス制度の大規模な再構築および民主化;
- (金融取引、二酸化炭素排出などに対する)国際課税からの新たな財源を通しての再分配;[23]
- 国内および地方レベルでの経済的分かち合いのためのその他無数の目標を通しての再分配。[24]
このようにして、第25条の実現を中心としたグローバル・ムーブメントを築く真の可能性は、それに関連したキャンペーンや革新的行動主義に途方もないドミノ効果をおよぼし、UBI支持者にとって最高の祝福となるでしょう。もし私たちが、発展途上国へ余剰資源を再分配するよう各国に要求する大衆デモンストレーションの無限の波を予期できるなら、彼らは明らかにその試みのなかで莫大な支持を得るでしょう。UBIの倫理的および論理的な正当性について従事する支持者たちをもしあなたが説得するつもりなら、確実に、彼らがそれに反対することはまずありそうにありません。そして恐らくはそれが、前述の「誰もが生きる権利を持っている」という道徳的正当性を基盤として、ベーシックインカムの提唱者が世界中で止むことのないデモンストレーションを計画する時なのです。
これら初期の所見から、第25条はUBIの存在の基盤を形成すべきで、そして双方が協力し合って取り組むべきことは明確かもしれません。もしすべての支持者が、集会、提案およびグループの行動主義のなかで第25条を布告するという目標をも受け入れるなら、それはベーシックインカム目標の遠大な助けになるでしょう。私たちが論議したように、第25条が目標に含まれる時、貧困者の基本的ニーズがあらゆる詳細に渡って含まれます − このようにして、すべての国の大衆に参加するよう呼びかけるのです。それに加えて、第25条のための大規模な動員の可能性を通して、政府の政策が、国連の最優先事項として致命的な剥奪を根絶するために、経済的分かち合いと協力へのグローバル・コールを通して正しい方向に変革し始めるかもしれません。この地球で分かち合いの原理をまず表現するのは、心からひとつになった一般大衆です。万人のためのベーシックインカムに加え、他の多くのものを確保する可能性を最終的にもたらすのは、世界資源の再分配への彼らの統一した要求です。
第25条が母親または保護者である一方で、分かち合いの原理は例えると、UBIの魂を象徴すると言えるでしょう。実に、第2次世界大戦後、秩序を取り戻すよう人類を鼓舞したのは世界人権宣言でした。そしてその後、ベーシックインカムへの長期的熱望は、その天為のファミリーホームを見つけたのでした。私たちが考察したこれらすべての理由、およびさらなる理由から、もし彼らが、自分たちの政治的概念を十分な生活基準の確立された権利に関連づけて考え、機会がくるまでその傘下で待機しないなら、ベーシックインカム・ムーブメントは長く暗い道に直面することになります。もしあなたが車を持つなら、それを運転するためのガソリンが必要です;私たちの論議をこれ以上簡単に要約することはできません。それゆえ、真のUBIプログラムが最終的に世界規模で実現されることを望むなら、論理的、実用的、戦略的なあらゆる角度から、第25条を導入することは理にかなっているのです。
*
それは、STWRの著書「世界人宣言第25条を布告する」で説明された論理的根拠に加えて、第25条を布告することがなぜ理にかなっているのかという戦略上の理由のいくつかを再考する助けになるかもしれません。大規模な市民参加のためのそのマニフェストのなかで強調されているように、私たちの中核的な目標は、社会を支配する利益主導型勢力にメタモーフォシス(変態)を間接的にもたらすことによって、大企業を屈服させ、政策立案過程への支配を放棄させることです。これが、UBI提唱者が、彼らのビジョンある想像力と聡明さを最大限に生かし、自分たちの提案との関連のなかで大変真剣に熟考すべき課題です。なぜなら、突然、皆がイデオロギー的違いを乗り越え、理不尽な問題や衝突なしで生きることをまるで決断できるかのように、万人のための無条件のお金と愛のある新社会を確立することについて私たちは言葉巧みに話しているのではないからです。
広大な影響を持つ株式有限責任企業は、道徳的あるいは倫理的考慮を越えて利潤最大化を優先する法律を通して、全人類と環境資源から利益を搾取することを探し求める、野放しにされた戦闘兵器のようです。より良い世界のビジョンが家屋として象徴され、それとは対照的に、多国籍企業は、紛争地帯に解き放たれた、各家屋を付随的に破壊する戦車に象徴されると想定してください。従って私たちの理想的ヴィジョンは、無限の資本蓄積の幻影の攻撃的な追求において、巻き添え被害のように迅速に除去されるのです。
そのような例えは幾分大げさかもしれませんが、政治的リーダーたちが常に熱中しているのはその象徴的戦いの延長なのです。それは、経済成長を作りだすための市場主導型の民営化政策、商品化、規制緩和、低い法人税率、その他の非常に分割的な手段を通して1970年代以来生活のなかにもたらされました。それにもかかわらず、拘束されない市場勢力の悪の根源は、唯の誤り導かれた政治的イデオロギーより遥かに深いのです。先ほど触れたように、グローバル化された経済制度を維持する人間の動機もまた、歴代を通して私たちの間接的な共犯と無関心が常にもたらしてきた、人類の貪欲と制度化された窃盗への昔ながらの傾向の頂点を象徴します。この古い物質主義の支配下から世界をどう解放するかについての問題は、特に、何世紀にも渡る植民地支配的な窃盗と貧困者からのおぞましい搾取の観点から現代資本主義の起源を考慮する時、軽い気持ちで受け止められるべきではありません。
従って、今までのところ政府への経済的義務として、法的な拘束力も強制力もない − 道徳的な熱望以上であったことのない人権の宣言を支持することによって、人類がこれらの根深く自己中心的な傾向をいつか変えれると期待するのは単純すぎるのではないでしょうか。第25条を中心に断続する世界的な抗議デモの実現には程遠いようですが、少なくとも頭のなかで、この驚異的なでき事から生じるかもしれない仮説上の意味合いについての考えに耽ることはできます。そして、国内および国際法を通して政府が第25条を一連の法的義務にすることを要求する無数の人々のど真んなかで、多国籍企業への主な影響はどうなると私たちは考えるのでしょうか。そして政策立案者が、中央集権化した企業の官僚の殆ど召使であることを念頭に置くと、政府自体の働きへの主要な影響はどうなると私たちは考えるのでしょうか。
この時点で、完全なUBI達成のために真の戦争が始まります。なぜならUBIの政治的目標には、政府が人口の多数派に富を再分配する必要性が埋め込まれているからです。従って、直ちに「革新的再分配」というフレーズが登場します。なぜなら、政府が大企業を規制し、前述の種類の経済改革を通して公共資源を取り戻さない限り、完全なUBI制度を即時に達成する方法はないからです。私たちの論理に基づくと、ここでの最大の希望は、国内のみでUBIを実現するよう国民が政府に要求するというものなく、真に協力的な政府間の行動を通して国連が第25条を保証するというものです。それが、国内および国家間双方で富と政治的権力を下方へ再分配する唯一の方法です。そしてそれが、商業化勢力、外交政策の破壊的なパワーゲーム、そして人類に仕えるという意味をまったく知らない政府の歪曲した優先事項が原因で、UBI政策が退廃することを防ぐかたわら世界の経済情勢にバランスと調和をもたらす唯一の方法なのです。
時間の経過とともに分かち合いへの広範にわたる呼びかけは、新しい法律および収入分配システムの確立にその多様性を徐々に延長するかもしれないため、政府の第一の役割は万人の尊厳ある暮らしおよび十分な生活水準への権利を守ることです。別の例えをあげるなら、UBIの支持者が間違ったドアをノックしていると暗示しているのではありませんが、ビルのなかの連続して通り抜けるべき二重のドアを私たちは想像できます。第25条への正面玄関のドアがすべての国の何百万人もの人々によって激しく叩かれる時、ついで内側のドアが最終的に明らかにされます。その背後には、社会正義および自由への希望に満ちた約束のすべてを備え持つUBIの最高のビジョンがあるのです。しかしその2番目のドアは、終わりのない大規模なデモンストレーションを通して象徴的にノックする公衆をもはや必要としないでしょう − なぜならそれまでにそれは、自動的に開いているだろうからです。
パート3:世界変革の内なる側面
UBIと第25条を布告するビジョンの間のこの関係をさらに明確にするかもしれないもうひとつの見解があります。それは、愛、善意、そして無数の分かち合いの形態の集団的表現を通して、利益主導型の価値観を社会がどう変革せねばならないかについての内なる側面を探求するということです。このような追求の方法は、私たちの考察のなかで常に最重要です。なぜなら、生命を脅かす剥奪を防止する緊急プログラムは、政治的意思決定の分野に変革をもたらすだけでなく、ひとつの相互依存する生命体として人類の意識に深い内部の変革をももたらすであろうからです。
言い方を変えてみましょう:そのように重大なでき事は、他人と地球を犠牲にしても莫大な利益を上げ裕福になりたいという熱望の終焉の始まりを意味するでしょう。私たちの本質的な価値観と連帯感、一体感、包括的感覚、そして実に、愛の感覚の視点から、予想外の変革をもたらすハートの目覚めによって駆り立てられ、他人の不必要な苦しみを和らげるためのこの偉大な社会的試みに参加し始める富裕者自身をそれは意味するでしょう。世界資源を分かち合うことが病んだ文明を救うための唯一の道だという新意識の出現に比例して、社会の対立し合った信念を代表する多くの「主義」でさえが、極端な分極化を減らし時間の経過と共に徐々に収束するであろうことが予想されます。
そのような外なる変革のすべてが、予備的な、人類の意識の内なる変革に明らかに依存していることを受け入れるなら、より広範な影響を容易に自分たちで予想できます。なぜなら、私たちが仮定したように、これらの内なる変革は、世界の余剰食糧およびその他の不可欠な資源の最終的な再配分をあるべきところへもたらす、貧困の不必要な苦しみの現実に対するかつてない目覚めによってのみもたらされ得るからです。
しかしながら社会の価値観が、実際には分かち合いと正しい人間関係の反対のものに基づいている今日、そのような新しい「分かち合い主導型」または「愛主導型」の社会的雰囲気が実際にはどうなるのかを想像することは容易ではありません。「私の価値観」と自国の「生活様式」について人々が話す時、無数の人々が極貧、暴力的紛争および緩和されない自然災害の結果毎日死んでいるかたわら、それは包括的な霊的視点から殆ど無意味です。私たちの心理的分離と偏狭な態度を特徴づける価値観以外に、この酷い世界状況のなかで、どのような価値観が意味され得るのでしょうか。豊かな西側諸国の都市でテロリストが罪のない民間人を殺める時、宗教的過激派が私たちを分割することや私たちの価値観、民主主義およびいわゆる生活様式を破壊することはできないと解説者が述べるのをしばしば耳にします。しかし、世界中で生活基準の広大な不平等さを維持する無関心が原因で、自己の生き方のなかで私たちは既に分割されているのではないのでしょうか。
従って、日常の生活のなかで正しい人間関係の価値観が意味を持ち始めるまで、全人類が自己の分離に対する認識を、惑星規模で表現するために必要な意識変革を想像してください。その新たな価値観が最初にどう表現されるだろうかを私たちは既に示唆しました − それはなによりも、誰一人として飢えから死ぬことが許されるべきでないという心からの認識を通して;そして、緊急の再分配プログラムによって余剰資源を分かち合うことを政府に要求する結束した公衆を通して − 表現されるでしょう。その時初めて、ベーシックインカム保障が満場一致で受け入れられ支持されるという種類の社会を私たちは想像できるのです。
それゆえ、多くのUBIに関する提案に欠落した要素は、このグローバルな共感的意識および実証された一体性の問題に関係します。そして何百万もの人々が正しい人間関係のすべての形態 − 個人間、コミュニティ間、組織間およびその他 − の価値観に向かって私たちを導く第25条の旗のもとで蜂起する時、私たちの意識はあらゆる方向へ自然に拡大するでしょう。正しい人間関係が、「危害を加えない」または「他人と地球を危害から守るよう努める」ことをも意味することを考慮すると、その計り知れない公衆の意識の解放が、地球の破壊の主な加害者、とりわけ利益と資源の搾取への歯止めがきかない欲を持つ多国籍企業に向けられるまで長くはかからないでしょう。しかし、搾取的事業活動や利益主導型勢力に関連して、すべての形態の貧困を緩和する経済的分かち合いへの目標を社会全体が受け入れることによって、どのような影響があるだろうと私たちは考えるでしょうか。
恐らく、私たちが推定するかもしれないように、目立った影響はないでしょう。そして、それらの巨大な商業化の実体は単に取り残されるだけでしょう。なぜなら、世界への善意と奉仕のあまりの雰囲気に、多くの企業の重役や裕福な投資家でさえがこの偉大な惑星規模のイベントに参加するために自分たちの業界を去るだろうからです。そのうち、世界的不平等という現実への認識が、危機的な環境状態、持続不可能な地球への要求を人類が劇的に削減する必要性の認識へと拡大されると同時に、多くの多国籍企業も彼らのビジネスモデルと目標を完全に変え始めるかもしれません。
企業による不正行為および危害についてのこの認識の急成長を確実に公衆は促進せねばなりません。それは、人間と生態学的破壊から利益を上げている多くの産業からの一般の離脱へと変換されるかもしれません。この観点から、ボイコット、直接行動、そしてその他の形態の草の根運動を通して、目に余る企業活動に莫大数の市民が挑戦することを求めるなら、消費者の行動主義は強力な防衛戦術です。実際に私たちが想い描いているすべては、正しい思考、正しい行動、そして正しい人間関係の方向へとハートおよび常識にフォーカスを絞った、すべての社会を浸透する善意と認識の影響です。そこから、利己心のない新しい関心からの動機を大衆の認識が反映し始めるのに比例して、大企業による搾取的活動は自然に停止するかもっと有益な活動形態に変換されるでしょう。
前述のように、根底にある問題は決して資本主義でも独占的企業でもなく、有害な方法で発達するこれらの貪欲な活動およびシステムを許してきた人間の意識でした。従って、人間の無関心と自己満足的な無頓着さが生みだしてきた破壊について私たちが意識的になる時、それに正比例して資本主義と協力がその外なる機能様式を変えるでしょう。私たちの意識が変革されると同時に、社会とグローバルな社会経済秩序の変革が後に続くでしょう。マインドが転換し、政治が転換し、そして世界自体がその転換に順応するのです。[25]
これらの所見をUBIの目標に関連づける時、確立された第25条の権利を中心に連続しておこなわれる抗議デモ活動を通して分かち合いの原理を人類が受け入れない限り、忠実な支持者たちが間も無く疲労し年老いていしまうだろうと繰り返す以外ありません。それが起こること自体は、UBI実現の必要性が各国で明瞭、容認可能、そして最終的に不可避となるまで、私たちの集団意識拡大の初期段階を象徴するでしょう。私たちの意識がこれらのもっと利他的方向に沿って拡張し続けるとともに、「ベーシックインカム」という言葉自体も(消えてしまわなければ)時間とともに変化せざるえなくなり、正しい人間関係の価値観にさらに近い違った意味を持ち始めるかもしれません。とにかく、UBIの心理的意味を「お小遣い」や「無料プレゼント」のレベルに劣化させ、真に価値あるすべてのものを取るに足らないものにすることに卓越する、商業化された社会の状況下で、「ベーシック」および「インカム」という言葉からなにを連想するでしょうか。
UBIに対する私たちの社会的知覚が将来どう発展するかを予測することは不可能ながらも、明確であるべきことは、人生の内なる側面についての認識を持ってより遥かに包括的および不変的視点からこのテーマを詳しく考察する必要性です。そうするなら、来たるべきオートメーションの時代の必要性、あるいは消費主義や仕事中毒でない社会の必要性を中心とした論理にUBIの正当性が限定されることはないでしょう。それとは対照的に、UBIへの道を理解するための出発点は、国家間の緊張と正しい人間関係の表現を後退させている社会のストレスや落ち込みの問題を考えることです。
これは、もしそのような表現が可能なら、世界資源を分かち合うことの臨床的側面です。なぜなら、内なる視点から、分かち合いの結果は国際緊張を削減することによって − 相乗効果を引き起こす融合のなかで世界的、国家的、共同体的、および個人間での − 全レベルにおいてグループを統合することを可能にするからです。ひいては、真の協力形態が自然に拡大され、国際舞台で政府間の競争関係にまったく予想外の良い結果がもたらされるでしょう。経済的分かち合いの真のプロセスが最終的に始まる時、国連を通して貧困救済の緊急プログラムを構造化するために政府が権限を与えられる時、正しい人間関係の確立のために必要とされるより幅広い構造が、社会の全レベルで自動的に顕現し始めるだろうと言えるかもしれません。
そして経済的分かち合いのプロセスを構造化するための主要要素のひとつは、国際緊急プログラムと同じ原則に基づいた正しい所得分配を必要とします:もし適切に活用され最も緊要なところに向け直されるなら、万人の基本的ニーズを満たすための十分な資源があるのです。物質的貧困の全形態を迅速に根絶するための十分な食糧、薬品、物資および技術があることを私たちは皆知っています。しかしこの偉大な文明的試みを成就するという現実のなかで、私たちの社会が他になにを達成できるかということについての意識は自然に拡大するでしょう − ひとつ例をとると、世界的なUBIの実現です。そして新しい法律が新しい構造を維持するために作られるでしょう。それは、完全なUBIに反対する幼稚な社会的議論を基本的に無意味で見当外れなものにするでしょう。[26] なぜなら、私たちは、本質的な自己価値感を維持し最も内なる歓喜、自由および創造性の感覚を表現するために必要な基本資源をすべての個人が保証されるところの、完全に違った種類の社会について話しているからです。
以前の執筆のいくつかで浮き彫りにされたように、新しい教育の必要性に関するこのテーマについてここで掘り下げる必要はありません。[27] ストレスと暴力が殆ど皆無で、そしてキリスト原理がもはや唯の学説上の考えでなくおよそすべての人の生活の経験的現実であるところの、ハート参加型の慈悲ある霊的社会を想い描いているのだと言うだけで十分でしょう。人類のハートが開く時、そして世界の圧倒的な緊張レベルが徐々に削減される時、正しい関係のなかで生活することがなにを意味するのかということの不可欠要素として、ベーシックインカム保証がその運命的な役割を担うでしょう。
*
これまでの考察の意図は、最終的に政府間で政治的レベルに反映されるべき私たちの集団意識と社会的価値観に事前の根本的変革がない限り、完全なUBI政策がどの国であろうと実行可能では決してないだろう理由を説明することでした。ベーシックインカム政策を中心とした殆どの話し合いに欠けた要素、そして現在の社会政治の状況下ではなぜどのような普遍的プログラムも退廃する傾向にあるのかという理由を、私たちは今探求してきました。
非常に多くの異なった角度から、今日のUBIの提案を取り巻く危険についての多くの暗示的意味があります。先に示唆したように、「ベーシックインカム」という言葉自体が、とりわけ既に言及した世界人口増加などの不吉な動向が悪化し続ける、私たちが住む商業化された社会では危険になってきています。すべての国で第25条の権利を迅速に保護しない限り、他にどうしたらこれらの動向は消え衰えるのでしょうか。[28] 私たちの論理を考慮すると、真に普遍的なベーシックインカムのビジョンがどのようにその他大変多くの問題解決を求め訴えているかが見て取れます。実に、西洋諸国の豊かな国々についてのみ話している限り、このシンプルな政策提案の周りの問題はそれほど劇的になっていなかったでしょう。
多くのUBI支持者はそれでもまだ、西ヨーロッパや北アメリカの国々などの主な先進国内で特に、分かち合い社会のビジョンをどのように達成すべきかという問題に気をとられたままかもしれません。しかしもし、従事するハートの良識を通してこの疑問を考察するなら、残りの世界が極端に不平等で永久に紛争にあり続ける限り、UBI構想が一国内だけでは決して持続され得ないことは明らかになります。スイスのような富裕国が(収入調査なしあるいは無条件で)生活に十分な金額を全国民に提供することを厭わないだろうと仮定しても、そのような国家制度が、長期的には乗り越えることのできない危険性をもたらすかもしれない明確な理由があります。
短期的には、出入国管理、そして居住に基づいた待ち期間や資格など、政府が全額負担する UBI構想の権利への様々な制約を通して、富裕国は貧しい移民の流入を防げるかもしれませんが、差別的な移民管理のプレッシャーにもかかわらず、公共政策立案の経済的グローバリゼーションの下方への圧力を考慮すると、そのようなシステムはどれだけの間存続できるのでしょうか。[29] この競争の激しい利益主導型の世界における最も論理的な分析から、どの国から発祥しようと、どのような国家的再分配の構想であろうと、その進展への多大な反対があることは確実です。
また、純粋な道徳的観点から検討する時、霊的に融合し不可分なひとつの人類のビジョンのもと追求することなくして、果たしてUBIが、厳密に一カ国内だけでいつか達成されることが可能なのか私たちは自問すべきです。運動家の提案がまず国家レベルに向けられ、そして彼ら自身および彼らの同胞である自国民の利益に向けられることは自然なことです。しかしながらUBIは、多重連結したグローバル問題への解決策としても考えられ、そして彼ら自身および彼らの同胞である同国民の利益に向けられねばなりません − そうでないなら、私たちの思考は明らかに、正義、結束、平等そして人権の普遍的概念に基づいていないのです。なぜなら、私たちの特権的なナショナル・アイデンティティを共有しない何億人もの人々の運命に対して無関心で居続ける一方で、私たちはあたかも自国を「人類」の総計と見なしているかのようだからです。ひいては国外の問題が膨れ上がり悪化し続けるかたわら、私たちの面倒のない日々は減り続け、自らが創造し、独立した囲い込みのなかにますます自己は失われていくでしょう。
従って、貧困が蔓延り、そして戦争で破壊された多くの国が食料不安の悪化を回避するために悪戦苦闘する世界で、もし十分な財源を持つ国があったとしても、一カ国だけで完全なUBIが実現されることは道徳的ではありません。あなたの国の誰もが、保障されたベーシックインカムや普遍的社会福祉を持って快適に暮らせるかもれませんが、そのような権利どころか、まったく食べるものもない極貧国の人々はどうなるのでしょうか。もしあなたがイギリスの首相で、イギリス国民のためだけのハイレベルなベーシックインカム構想を実現するために国会を通して法案を可決したとしたら、フランスやドイツの人々のことはどうでも良いのでしょうか?そして破壊的な自然災害または経済的大惨事によってたとえ彼らが苦しんでいたとしても、何百万人もの隣人をお腹を空かせ貧困化したまま放っておくのでしょうか?それでもそれが、国内情勢について論議する富裕国の人々の実状なのです。彼らは、遠方の国々のそれらの人々の不運に言及することなくして、自分たちの確立された社会保護システムをあたかも守れるかのごとく論議するのです。
それゆえ、その世界的表現の絶頂期にある商業化パラダイムに関連したすべての問題が原因で、福祉国家としての先進国が退廃すると同時に、分かち合いが欠落した世界の成れの果てを私たちは目撃しています。拘束されない市場勢力のイデオロギーと私的所有権が世界情勢に君臨し始める以前は、1970年代後半のあたりまでイギリスなどの国々は、効果的な分かち合い経済として普遍的福祉国家の包括的可能性を実証していたかもしれませんが、私たちが断定したように、累進課税と社会的移転の再分配政策を通して国家の資源を分かち合うことは、世界の資源を分かち合うこととは大変異なるのです。そして(国連の創設以来、この惑星で正確に目撃されたことのない)すべての政府の間での経済的分かち合いプロセスの開始なくしては、先進諸国全体の既存の社会的セーフティーネットは劣化し退廃し続けるでしょう。
それを最も必要とする人々を侮辱し裏切る収入調査つき福祉制度によって人間の生活がコンピューター化された現在、この実在する危険の徴候を私たちは既に見ています。社会がより包括的および道徳的基盤で劇的に再組織化されない限り、これらの恥じるべき論議は、20世紀の公共福祉制度が必然的に崩壊するだろう時を運命づけています。これを念頭に置き、すべての国のビジョンとしての政策のためにUBI支持者が一同に運動を起こすことは必要ですが、分かち合いの原理が少なくとも国家関係を統制し始めるまで、それは成就され得ないという現実にも注意せねばなりません。このすべてが私たちを自分たちの中心的展望に連れ戻します:この高潔なビジョンを開始するために欠落した要素は、第25条の布告に基づいた人々の世界変革のための戦略なのです。
パート4:決定的な普遍的ビジョン
私たちが最後に考慮すべき事柄は、これまでの考察であらましが述べられた、公衆の認識および国際関係の変革に続いて、最終的なUBIのグローバル・ビジョンが将来どうなるかということです。(先見の明のある崇高な目標がいつか実現すると見込んで)卓越した熟練経済学者の仕事となるだろう最終的な政策について詳説する試みがたとえ無益であったとしても、これらの新しい経済的取り決めを想い描く試みには確かに価値があります。第25条をすべての国で保障する可能性が遠隔的に考えられる以前に、グローバル経済の全構造が遥かに公正かつ平等な基盤で改革されねばならないことを忘れるべきではありません。
確かに、経済的不安定を大きく深刻化し、経済の民営化を合法化した現代の政策を巻き返すことなくして、政府はすべての国民の社会権を保護することはできません。社会的ニーズへの莫大な軍事費の向け直しは極めて重要ですが、世界の租税回避地、返済不可能な公的債務および不公平な貿易条約のすべてのシステムを含んだ、グローバル・サウスの政府を1980年代以前から抑圧してきた他の多くの政策および構造を変革する必要があることをもまた考慮せねばなりません。これにより、第25条が国連内で法的強制力のある人権法となり、そのような究極の目的を達成する手段としてUBIが全国連加盟国によって真剣に論議される可能性をもたらすと予期できます。そして私たちは、真の「ユニバーサル」ベーシックインカムが − すべての人間の基本的権利を永久に保障することを促進できる世界的社会政策手段として – なにを意味するかについて最終的に考えるかもしれません。
ここで注目すべき点として、低所得国における貧困削減の実際的方法として有望なキャッシュトランスファー構想(CT)が、国民と国家の間の新たな社会契約の基盤を形成する可能性を多くの開発経済学者が歓迎しています。CT構想は、子供の予防接種や学校出席率などの一定条件を伴って遂行されようとされなくとも、排除された国民の生活に変革的効果をもち得ることを多くの証拠が示唆しています。これは、インフォーマルセクターで働き、社会的に排除されたコミュニティに住む何百万という人々に関して特に言えます。従って現在のところ、特定の結果を得るための実験として、狙いとするグループに限定的な手段で適応される時でさえ、貧困削減の戦略に関連して実証されたキャッシュトランスファーの成功が分かち合いの原理の多様性をどう反映するかを観察できます。人為的な不足に苦しめられる利益主導型の世界で、お金へのアクセスを持つこと自体が常に変革的です − それは最富裕者にとってもそうであり、それがなぜ、直接的な現金給付が貧困者の生活を変革すると期待することが自然なのかということです。
しかしながらこの探求で追求される、総合的および完全に包括的展望からのこれらの目標としてのキャッシュトランスファー構想は、多国間交渉と構造的経済改革の政府間プログラムを通して取り組まれることからは程遠い、世界貧困の緊急事態に照らして考えられるべきです。キャッシュトランスファーの実験の結果は、そのような構想の協力的な国際的実施にすべての国が同意するというビジョンに達するには何段階も足りないにしても、国内での完全なUBI制度を通してなにが成就され得るかを示します。実に、低所得および高所得国双方において社会的に排除された貧しい市民を対象に実験することは可能かもしれませんが、まさにこの瞬間飢餓で死ぬ危険にさらされている何万人もの子供や大人の生命を使って実験することはできません。定期的なキャッシュトランスファーは、大規模な貧困化の根本原因に取り組むことのできる、グローバル経済のより長期的な再構築に伴い、国々が即座に緊急貧困救済プログラムに専念しない限り、無数の罪のない人々の生命を救うには決して十分ではないでしょう。
現在のところキャッシュトランスファー構想は、それがもし政府や援助者によって援助受取人として選ばれた、発展途上国の比較的恵まれた人々だけのためのものなら、物質的剥奪の最悪の影響の緩和を促進するには不十分な援助形態として最も良く理解されます。しかし、例外なくすべての人の利益となり、最終的にノースおよびサウス両極のすべての国の確実な支持を持って、国連によって調整されたベーシックインカムの恒久的な制度に、その援助が変換される時代の方向を私たちは見ているのです。
そのような過程の始めには、この目的に向けての多国間交渉は国連の援助のもと行われるだろうことを予測するのは極端なことではありません。結局のところ、真に普遍的な人権の展望からベーシックインカムの必要性を思い描くなら、国連総会は多国間レベルで現在存在する、名目だけ民主的で代表的なフォーラムなのです。そして基本的人権のための平和、安全保証および敬意を促進するための国際的努力を調和させる多くの専門機関が国連システム内に既に存在します。従って、すべての国のためにUBIを同時に調整する時が来たなら、ひいてはその意味での「普遍的」という言葉は、国連とその条約上の義務の基本的な目的と原則に関連づけられねばなりません。
尊厳のある健康的な生活への平等な機会を「私たち人民」に提供することなくして、この尊い機関の存在の理由はなんでしょうか。そして私たちが要約したすべての社会的、政治的変革の結果として、UBIのグローバル・ビジョンは、大衆の間で一般化され広く話し合われる可能性を持つことから、最高レベルの政治フォーラムで討議されねばならないでしょう。なぜなら、それ以外どこでそれが多国間で組織化され得るのでしょうか。もし国連安全保障理事会が、人権侵害を防止するという見せ掛けの目的のために軍事介入や制裁を認可する権限を与えられることが可能なら、もっと包括的な国連総会が、すべての国のUBI制度の設置を監督するという善意の目的のために活用され得ることは確かでしょう。自治権を持つ、国連家族の重要な一部として、他の関連機関と併せて機能する、この重要な任務の責任を持った新しい専門機関の確立を予期することさえ恐らく可能でしょう。
この時点で、国連システム内の複雑な中央集権的官僚制度を直接通して各人に分配される惑星規模のベーシックインカムの必要性を想像しているのではないことが強調されねばなりません。特に、それが、未来の世界政府を思い起こさせるかもしれない、ある種の超国家的トランスファーシステムの創設を伴う場合には。[30] それとは反対に、すべての主権国家が各国特有の伝統、習慣および民主的営みを常に尊重しながら自国に適合した手段と要求に従ってUBI制度の発展が促進されることは大変重要です。しかしながらそのプロセスにおいて、(第25条およびそれに関連した国際人権規約に既に謳われているように)万人の適切な生活基準への権利を保障するために各国のUBI構想の一般的原則と基準を決定する合意された国連の国際法を政府が固守する必要が予想されます。
別の言い方をすると、国連総会において加盟国は、物質的貧困を根絶し基本的な人間の自由を促進すために十分なUBIを単独で実施することに同意することができます。そのような条約を導入するための取り組みは長期間骨の折れるものとなろうことは疑いありません。なぜなら、国費で賄われる公共サービスと普遍的な福祉制度の拡大に伴い、効果的なUBI構想を発展させるための国際支持をまだ必要とするだろう発展途上諸国のための規定をも含まねばならないからです。現在、革新的サークル内で広く話し合われているどのような種類のオプションを通しても融資され得る世界連帯基金が、この平明な目標のために設けられねばならないでしょう − そのオプションの多くは、共有の資源から「社会的配当」を集める新しい革新的方法を伴います。[31][32]
繰り返しますが、劇的に短い時間枠内での前代未聞の規模の富、権力および資源の再分配によって、UBIのグローバルなビジョンがどのように左右されるかということに注目すること以外、既存の提案の妥当性や識見を詳しく検討することはこの追求の意図ではありません。そして、その再分配の範囲は全分野において「普遍的」でなければならず、協力的な余剰資源の共同出資と世界の公的収入の創出を通して政府間で行われることが最も重要です。実に、国々にとって、戦争の複雑な下部組織構築を組織化することが可能であるなら、国連の新たな国際法によって維持され、分かち合いの原理に基づいて組織化された、新たなグローバル経済の下部構造を構築するために協力することもまた可能なのです。
事実これは、世界の最貧困地域への資源の「大規模な移動」を持って、私たちの相互依存を強調し「軍備縮小から発展へ」公共支出の優先を向け直す国々にとっての必要性を強調するなかで4、50年前ウイリー・ブラントが目指した概括的な目標でした。共益と経済的分かち合いに基づく新しいグローバルな団結精神なくして決して達成できないことを認識し、第25条を実現するために必要な構造的改革をブラント報告は間接的に呼びかけていたと言えます。そしてそのなかで、彼はUBI政策の世界的実現の時をも間接的に予知していました。なぜなら、これら両方の目標が同じ軌道上に存在し、− 尊厳と自由を持って「生きる権利」を万人に保証するという – 共通の基本的な目的を通してそれらは繋がり続けるからです。
しかしながらこの見地から見る時、それに続く段階においてのみ成就され得るUBIの最も完全なビジョンと、グローバル・ノースおよびサウスの協力を通して世界資源を分かち合うことの観点からブラントが達成しようとしたことの間には、重要な違いがあります。明らかに第一段階は、国民国家間の関係に関するものであり、そして世界経済システムのバランスを整えるもっと平等な発展形態の必要性を通して極貧を撲滅し長期的な国際安全保障の基礎を築くことに関するものです。しかし、世界中でUBIを実現することの第二段階は、個人と政府の間の関係に関与しますが、それは第25条の一般規定に関連して、後に同意された国連の規範によって強化されるだろう新しい社会契約を定義づけます。簡単に言うと、世界資源を分かち合うことによってのみすべての国が − 単独で、かつ相互支援に基づいて − すべての国で持続可能なUBIのビジョンを実現するために必要な、新しい政治的取り決めをもたらすことができるのです。なぜなら、前述の私たちの意見についてのすべての論議の通り、世界の様々な地域に大きな格差が存在し続ける限り、それは達成不可能なビジョンだからです。
ある観点から見ると、完全なUBIの決定的な方策の実施に関しては、最富裕国に最も課題が突きつけられます。なぜなら、例え彼らが国内でそのような政策を実現することにひたむきであったとしても、不正に獲得された繁栄を現在維持するためのすべての分割的手段を激化することを、どのように彼らが余儀なくされるかを観察しました。従って、これらの全体に浸透した破壊的プロセスが徐々に覆されない限り、最富裕国が資源の国際的な移動の大規模なプログラムに専念しない限り、そして世界の政府が真の団結精神のなか協力し始めない限り、この追求のなかで提示されたビジョンについてさらに話し合うことは無益なのです。UBIのような高潔な目標を促進し続けることになにも非はありませんが、それに先立つ目標が第一に実現されるまでは、鉄玉と鎖をつけて歩くようなものとなるでしょう − とりわけ、第25条の人権を断続して支持する途方もなく大きな公衆のデモンストレーションという目標です。
エピローグ: 最終的な励ましの言葉
いくつかの角度から最終結論を繰り返す目的は、それが熱狂的信条や未来の希望的予測だからではないのだということに注意してください。UBIの最高の理想をいずれ実現するためには、実際にそれは、戦略的に起るべきことについての理論的および直感的分析に基づいているのです。確かに、現在の政治情勢のなかでベーシックインカムの目標のために戦うことは賞賛に値しますが、私たちの課題の核心がどこにあるかを理解することは重要です。それは常に、私たちを含む人類の大多数派をどう結集すべきかという問題です。この闘争に乗りだす支持者は、「すべての国を越えて人類がある」ということを本質的に意味する高潔な開拓的道を選びました。しかし私たちの問題は依然として、政治的リーダーたちにUBIの提案を真剣に考慮させるつもりなら、少なくとも環境問題の周りの認識に匹敵するべき十分な公衆の支持の欠如なのです。
議論の余地はあるにしても、同じことが発展途上国開発問題についても言えます。なぜなら、まるでこれらの危機的問題が資格のある専門家や政府に任されることができるかのように放ったらかしにされ、一般大衆の十分な後押しなしでNGOや政治的活動家が貧困者の権利のために戦っているからです。私たちに代わって、これらの問題を提示しようと試みる少数の政治家たちでさえ、大衆が団結した声を持ってひとつの目標のなか彼らを支持しない限り、勝ち目のない戦いに取り残されるのです。いくら水のなかに沈めようとしても浮いてくるコルク栓のように、富の再分配を促進するどのような政治的方策も保守的な現状によって猛烈に拒否されるでしょう。それが今に始まったことではないことを私たちは思いださねばなりません。それは、あなたや私が生まれるずっと以前から常にそうだったのです。
今初めて、従来のやり方で続けていくことがもはや不可能だという、新たに発見された感覚を持って、違った理解が生じているようです。根本的な問題は社会に生きる私たち全員の責任なのだという認識が出現し始めていますが、最終的にそれは、人間種族としての意識レベルに関係しています。従って世界問題は、政府の幻想と戦うたった一握りの活動家によって、または政策的処方を変え代替的アイデアを政治家が受け入れるようロビー活動を行うNGOによって、解決され得るものではないのです。必要とされる真の変革は、きたるべき取り組みへの計り知れない意味合いを持って、相互依存するひとつの生命体としての人類の拡大された意識内から生じねばならないという、一見単純過ぎるように見える結論が繰り返されるべきしょう。
上記の理解につけ加えて、その源が左翼でも右翼でも、その大いに妨害的な性質ゆえ、私たちの道に照らす光を妨害する、古代の心理的問題である、分極化した「主義」のあらゆる形態にUBI参加者は注意すべきでしょう。すべてのUBI支持者が自問すべき疑問は:私は人類のためにここにいるのか、それともアイデアのためなのか?なぜならもしこのムーブメントのなかに反発し合う多くの異なった派閥があるなら、結合的な生命を持たない知的なアイデアが私たちの動力となっていることは明瞭だからです。そしてひいては先に私たちが言及した、良くない動向のすべてが悪化し続けるかたわら、私たちのアイデアが少数の知識人や熱烈な愛好家が没頭する関心の対象のまま残ることは確実です。そして最終的にベーシックインカムは、断片化する社会と環境破壊の大混乱のなかにやがて忘れられてしまう、風変わりなユートピア的アイデア以上としては考慮されないでしょう。
しかしもしこのムーブメントに参加する理由が、人類全体の福利によって動機づけられているなら話は別です。その場合、そのアイデアは「私たち」や私たち自身の特定の国に限られていないことから、それは万人の共益へと自然に拡大されるでしょう。ついでもしそれを世界に紹介するその革新的グループが絶対的にすべての人の生活について話す限り、結束した運動への極貧者および極貧国による参加を可能にし、そのアイデアはそれ自体の生命と意味を持ち始めるでしょう。この場合、私たち自身と自国の同胞たちのための比較的安楽な生活様式を維持する手段としてベーシックインカムを概念化し、貧困国の人々が黙って観ている以外なにもない偏狭なキャンペーン活動をする代わりに、本質的に平等で不可分なひとつの世界を私たちは真に想像しているのです。
従って、社会的に排除された貧困者の謙虚なニーズを代表するあらゆる社会運動を先導することにおいて、決して支持されるべきでない学者や知識人だけの手中に、UBIのアイデアが陥らないようにしましょう。学者たちは、込み入った詳細に至るまで人類の問題を熟知しているかもしれませんが、残念なことに、人間の生命をアイデアの箱に詰め込めるかのごとくその理解を区分する傾向があります。しかし、人類はアイデアではありません。それがなぜ、私たち共有の富を再分配するために誕生しつつあるこのグローバル・ムーブメントを、少数派である高学歴のいわゆるリーダーシップに頼る必要なくして大衆自体が先導せねばならないのかということです。なぜなら、他の知識人に挑戦したり政治的討論で情報を提供したりする知識人の役目が重要であるにもかかわらず、洗練された知的な言葉を理解しない世界の抑圧された大衆を彼らは説得力を持って代表できないからです。
新自由主義的な資本主義の優勢な理論的枠組みに挑戦するための反覇権的戦略についてあなたの近所のスーパーマーケットで一般の人に話してみてください。典型的に、困惑した返答が返ってくるでしょう。しかし、世界資源の分かち合いと世界人権宣言第25条を支持する必要について同じ人に話してみてください。彼がそれを理解し同意して頷くのは確実です。それがなぜUBIムーブメントの全メンバーが、いき過ぎた学術的思考に気をつけ、主義や信念に過度に影響されないよう非常に気をつけるべきかという理由です。もしあなたが世界変革の試みに知的に取り組もうとするなら、世界の大部分を形成する3つの要素を通して、世界があなたを変革するだろうことは確かです − それは、主義、信念および知的産物です。
私たちはまた、グループ内の分割的勢力に警戒すべきです。それは、高潔な目標のために他者と結びついた後、その高い志を徐々に見失っていく人々の傾向を指します。残念ながら、人類の向上を支持する大変多くのグループが主義の幻想に影響されやすく、善意や協力の本当の意味とはまったく関係のないグループ内の様々な派閥の形成をもたらします。殆どの政党が権力を巡って競争し、あらゆるところで、すべての人々と国々の共益に対して非協力的な国内政治の舞台でこれが繰り返し目撃されます。しかし元来、他の組織や一般市民の関心を代表するために創設された市民社会組織は、同じように知的構想に逃げ込むという傾向に陥り、皮肉なことに、他の組織や一般市民に対してエリート意識を持つようになるのです。
ある意味で、あらゆる種類の革新的団体は、彼らと彼らの目標が一般人によって全面的に支持されていない時、しばしば隔離された思考および運動プロセスに導かれるのは理解できることです。そして現在私たちの分割された世界を維持する物質主義的勢力があまりに蔓延し圧倒的なため、私たちの心を掻き乱しそして私たちを征服し引き裂こうと狙う、その蔓延る闇の影響によってあらゆる方向に容易に私たちは引っ張られるのです。それはまるで、この支配的な商業化パラダイムのなかで、もし私たちが新たな社会のために戦おうとするなら、世界自体が私たちを変革しようと企むかのようです。もし私たちの唯一の対応が、主義や信念の内輪争いに参加することによりUBIの解決策を促進することなら、ひいてはそのような目標がどのようなものであろうと、先ゆきは暗いと既に確信を持って言えます。そうなると、この提案の新鮮さもマグネティズムも知的思考を通して結晶化され、従って、そのエッセンスまたはハート自体を失い、公の議論の場で反動的な反論が権勢を振るうことになるでしょう。
従って、ベーッシクインカムの支持者が彼らのハートの特質を活用し、固有の危険性を伴う知的主義の幻惑に屈しないことが絶対不可欠です。[33] 私たちは皆、親しい友人や家族に会う時、ハートを使うことに自然に慣れているにもかかわらず − 寛容さ、包括性、善行および他者の苦しみへの共感など − 愛するハートの高潔な資質が、私たちの冷たい知的な執筆や運動活動からしばしば欠落しています。しかしながら、それはUBI政策に関連して私たちのハートを活かすという問題ではありません;むしろ、社会全体のニーズへ向けてハートの特質を活かし、ついで広範な人類の苦しみを緩和することに役立つ可能性を持った政策手段としてUBIを促進せねばなりません。それが、このアイデアが私たちを第一に鼓舞した理由ではないのでしょうか。そしてそれがなぜ、決してマインドの産物である主義からではなく、「誰もが生きる権利を持っている」と言うシンプルなハートの認識から生じた、貧困緩和のこの明らかな方法を私たちが支持し続けるのかという理由ではないのでしょうか。
もし私たちが、世界を変革するのは決して政策でも知的アイデアでもないのだということを理解したなら、私たちの行動主義はどれだけシンプルであったことでしょうか。なぜなら唯一の解決策は、内なる認識と自己知識を通して、私たちのハートの目覚めにあるからです。もし私たちが自分自身や、自己が持つ生来の高潔さを知らないのなら、UBI政策のために運動をする目的はなんでしょうか。そのようにシンプルな政策的処方は、それが世界規模で適応される時非常に複雑になります。なぜなら、私たちが考察したすべての内なる問題 − 知的解放性の欠如、利他的関心の欠如、分かち合いと本質的な愛の欠如 − が原因で、世界自体の社会組織の外部様式が非常に複雑化しているからです。
勿論、知識人や学者がUBIに対してこのような見方をすることは決してないだろうし、彼らの多くはその真の世界的実現を正当化するか拒否するかするために主義のレンズを通してそれを見ます。そのような個人と話し合ってより包括的および霊的観点から考えるよう彼らを説得することはできません。それがまさになぜ、主義によって分割され複雑化された社会を変革しようとすることに慎重であるべきかという理由です。なぜなら、果てしなく複雑な世界問題に、もし私たちの政策的処方を適用しようとするなら、同じように複雑で分割的になるように、即刻世界が私たちを変革するだろうからです(もし私たちがまさに世間知らずとして撥ねつけられないならですが)。
明らかに、UBI政策のアイデアはおよそ神がかってシンプルですが、意識的一体性と心からの同意のなかで結束した一般人のパワーだけがそのシンプルさを維持できるのです。従って、世界問題とその解決策が政治階級だけの責任でないことが見てとれます;実際にはそれは一般大衆全体の責任です。なぜなら、どこかで何百万もの人々が惨めな最悪状態で生活し広範囲にわたって長期的飢餓から死んでいるかたわら、偏狭な生活と社交的お祝い事に参加し続けるのは私たちだからです。
このムーブメントの参加者が、事実ベーシックインカム政策の本質が愛であることを各々で知覚するならUBIの概念は、私たちのハートのなかで非常にシンプルであり続けることができるのです。私たちは、アイデアに対してはいつでも活力を持って反応するようですが、愛に関することになるとなぜそうでないのでしょうか。ハートを通してもしこのアイデアの響きが感じられるなら、それがどのように無意識的であろうと初期の段階であろうと、それは既に私たちが愛への呼びかけに応えているということなのです。分かち合いの原理を世界情勢に適用する必要性についての以前の考察のすべての点から、政治的主義の強制を通してでなく世界市民の愛の行動を通して、これらの新たな経済的取り決めが実現されねばならないことに注目しましょう。既存の社会的パラダイム内のそのような主義はどんなものであっても有害です。なぜならそれらは、資本主義対社会主義などの対極するイデオロギーとしか存在できないからです。それは、社会的対立と元来の理念の最終的退廃の可能性を予め方向づけます。
UBIの最高のグローバル・ビジョンについての想定上の話し合いからさえ、大衆の善意のほとばしりを通してさらなる協力がどう必要なのか、またより大きな認識がどう必要なのか、そして前例のない一体性がどう必要なのかを、およそ直感的に感じとることができます。もしあなたがハートとマインドを融合させてこのテーマを詳しく見るなら、ひとつの自然な結論に至ります:正真正銘のUBIビジョンのエッセンスは、具象化された形で愛を表すということであり、それがすべてです。従って、完全なUBIがまだどこにも実現されていない第一の理由は愛の欠如ということです。それ以外になんであり得るのでしょうか?すべてがこのように簡略化され得ますが、ここで述べられている愛は、センチメンタリティや多くのニューエイジの霊的グループによって表現されている世界平和の空虚な理想とは関係ありません。なぜなら、その愛をうまく目覚めさせるためには相当骨の折れる本格的仕事が待っているからです。そしてUBIは、その運命的将来の役割が私たちが心に描いたすべてのものと一致すると仮定すると、理論的なアイデア以上のものを象徴します − それは、最終的に最も必要とされるところに愛を広げるということです。
この内なる視点または心理的および霊的視点から詳しく考察する時、ベーシックインカム実現の道は、人間の無関心と自己満足的な無頓着さへの対抗手段であると結論づけることができます。なぜなら前例のない範囲にわたる粘り強さ、認識、包括性および善意なくして、この自由をもたらす提案を達成する方法はないからです。心臓、肺そしてその他の臓器の間に調和を生みだす、生命維持に必要な各部分の間の一体性なくして、人体が正しく機能できないないのと同じように、この地球でかつて目撃されたことのない一体性と協力への呼びかけをそれは象徴します。従って、自己利益のために私たちの道義に基づいた目標を吸収することを必然的に求めるだろう反対勢力の強さを考慮しながら、いわばより健康な心臓と肺を持って、統一された努力のなかでより協力的かつ再分配的社会を作るための道を先導することをUBIの提案者は求められます。まさに兵隊が戦場で彼の軍隊と共に同胞愛の精神を持って戦うよう訓練されるように、新たな社会的合意のために取り組む平和活動家たちは、主義や知性の観点から自分たちを分割することなくして他の支持者全員への同情心と友愛精神のなかで自分たちの政策理念を提唱することを求められます。
この呼びかけは、平均的な善意の人々へ訴えかけることができないだろう派閥的同盟のなかで結束するためのものではありません。むしろ、外の世界に反映されるべき包括性と正しい関係をもし自らが実践していないなら、もともとなぜ私たちはベーシックインカム政策に関心を持つのかということを繰り返し自問すべきです。筆者は、正真正銘の完全なUBI制度が国連の保護下ですべての国において最終的に確立されるだろうことを断定できないながらも予想しますが、ベーシックインカムは市民の大多数がその平等主義的可能性に関心を持ち納得しない限り、現在そのようなビジョンは疑わしい展望であり幾分曖昧で怪しい夢です。既存の参加者の間での猛烈な支持と結束なくしては、この壊れやすいアイデア自体は − もしそれがまったくのアイデアでしかないなら − 最終的に崩壊し無邪気でユートピア的なものだと永久にみなされるだろうと予想するのは論理的です。
そのグループの結束を実証するひとつの方法は、すべての人のためにベーシックインカムを保証するよう各政府に要求する、絶え間ないデモンストレーションおよび直接行動です。しかしそのような活動は、社会主義や過激な左翼的政治と関係を持つべきでなく、私たちの成熟性、責任およびハートの良識の反映であるべきです。毎年会議を組織することが可能であるなら、共通目標のなかでUBI支持者を統一する連続したデモンストレーションを組織することも可能でしょう。従って、政治的観点から次のように助言する大衆のスローガンの精神を具現化できるのです:「脇見することなく一直線に進みなさい」(「そして常に本当のあなたを忘れずに」:とつけ足すべきなのですが)。
世界中の何億もの人々がベーシックインカム・ムーブメントの存在についてまだ知らないことを考慮すると、そのような永続的なデモンストレーションはそのアイデアをやがて強化するでしょう。そして始めは小さかろうと大きかろうと、それらの結束した集まりは拡大し、それに続くよう他国に影響をおよぼすことを促進するでしょう。UBIの主要な意味が唯一「生きる権利」という − 私たちが論議したように、極貧者がほぼ確実に同意するだろう基盤であることを忘れないでください。
さらに、この追求におけるすべての論理的思考の要約が、ベーシックインカム保証に対する各国の特定の要求と並んで第25条と世界資源の分かち合いを私たちが支持することをやむなくさせるように影響を与えることも同様に望まれます。それが、貧困層に達し、より良い生活のために彼ら自身の声に力を与えるための方法なのです。なぜなら、ベーシックインカムの実施が、実行可能な方法で国際規模となる時がまだきていないからです。
第25条が、国連創立時の理想の中心となる普遍的人権の長期的な熱望であることを私たちは認識しました。それがなぜ、まさにその基盤のもと第25条を支持および要求し、そして第25条を中心に動員せねばならないのかという理由です。もし私たちが第25条のレンズを通して考え戦略を練るなら、そしてもし私たちがハートのなかで分かち合いの原理の光によって導かれ続けるなら、知的思考と主義に妨害される危険はないのです。この想定は単純明快です:長い間放置されてきた世界的緊急事態として、私たちの飢えた兄弟姉妹たちを食べさせ、そして中核的な多国間条約の基本的人権として長い間規定されてきたように、万人に十分な社会福祉サービスを提供せねばなりません。
これらの重要な点から第25条は理論的アイデアの実現に関するものではなく − むしろそれは、この決定的時代におけるそのより深い意味合いを理解できるなら、さらには人類の存続を指していることから − 世界的なUBIのための指針となるインスピレーションなのです。第25条の権利を保証するために、自動的に取り組まれねばならないだろうその他非常に多くの構造的不正義は、経済的分かち合い、相互援助、世界統一および自発的犠牲を伴った無比の対応を必要とするでしょう。基本的にこれが、結果としての説明がたとえ長くても、統一したハートとマインドのシンプルな論理から生じる私たちのすべての論理の要約なのです。
*
最終的に言及されるべきすべてのことは、世界の富のより平等な分配の必要性を思い描くことなくして万人のためのベーシックインカムを思い描くことはできないことから、第25条を中心とした世界的デモンストレーションのビジョンがUBI支持者によって受け入れられ導入されるべきだということです。世界正義および人権のための解決策はどのようなものでもこの前提条件の具体化なくして実現され得ません。なぜなら第25条を布告することは、国際情勢に分かち合いの原理を確立するための最後のチャンスかもしれないからです。商業化パラダイムが日々拡大すると同時に、第25条のための結束した抗議デモが対策として拡大せねばならないと考えることは確かに理にかなっています。テーブルを囲んで話し合い、この地球上から貧困を根絶するために資源を再分配し経済システムを再構築することに最終的に同意するよう世界のリーダーたちに影響を与える手段は他にないかもしれません。
私たちは第25条がおよそ予言的にUBIについて語っているのを認識しましたが、その声は、UBIが語ることを可能にする土台を与えるだろう、地球という家の土台として第25条を実現することを求める、揺るぎない社会改革運動を私たちがもたらす時に初めてきこえるでしょう。それまでは、それは翼のない鳥、またはどの方向へも進めない馬なし馬車のようになるでしょう。私たちは他のすべての戦略を試みてきましたが、国々が神聖さ、ひとつの人類、ひとつの愛への認識を持って余剰の富を自由に分かち合わないなら、なにも成功しないでしょう。それが、私たち皆が探す鍵ですが、それは万人のハートに常に埋め込まれていたのです。
最終的に、「万人を愛し仕えよ」という魂の強い要求でないなら、UBIムーブメントの参加者にとって最も説得力のある動機となる要素はなんでしょうか。パーソナリティのより低い衝動を通してそのより高い印象を歪曲または低下させるかもしれない参加者がいるにもかかわらず、それでもなおベーシックインカムの神聖な概念は、より高尚な霊的次元に存在し、適切なインスピレーションを伴ったこの高度なアイデアに人類が反応する時を待っているのです。飢餓者に食べものを与え貧困者の苦しみを緩和する目標は、UBIの促進より高い道徳的または霊的正当性を持ちます。なぜなら不必要な極貧の永続が、何億もの人々が霊的に進化できないまま放置されている恥ずべき理由だからです。愛と奉仕を通しての魂の成長が私たちがこの物質界で肉体を纏って化身する基本的理由です。従ってこの惑星地球で万人のためのUBIのアイデアを支持するためのどのような理由がその他にあり得るのでしょうか。私たちのど真んなかで何億もの人々が飢えて死ぬのを許すことは、不可侵の霊的目標を成就するための機会をその人たちの魂に拒むことだと私たちはしばしば述べてきました。そして今、その天与の機会を貧窮化した何億という人々に返す可能性は、もしその機会を即急に掴むなら私たちの手中にあるのです。[34]
それは大変しばしば物憂げに示されるように、「もうひとつの可能性の世界」を創造するという問題ではありません。なぜなら、私たちにはこの世界ひとつしかないからです。そしてそれを変革するのは私たちにかかっているのです。一夜にして新社会を奇跡的に確立することはできませんが、進化する魂の王国についての一般的な理解によって一度私たちが啓蒙されるなら、さらに霊的な理解および思考を即刻確立することができます。私たちの進化の第5王国または霊的王国は、連続する生涯のなかですべての個人が徐々に到達し体現する特定の存在または意識の状態を実際には意味するにもかかわらず、多くの人はそれが別の次元のどこか高いところにあると考えます。[35] 従って、進化の方法およびペースを人間自身が決めることを可能にする自由意志の法則が存在することから、より良い未来が物質的にどのような様相を呈するかということを正確に述べることはできません。
私たちに唯一予測できることは、全体に対する慈悲的な認識に基づいて、そのより良い世界が主観的な観点からどのように生まれるかということです。というのは、すべてのレベルにおいてすべての違った形で、変革された社会構造および人間関係を決定するのは、ハートが従事した認識の範囲だからです。そして、そのような拡大された意識を通してのみ、UBIを国際基盤で実現する段階に至ることができ、ハート時代(結局のところ「ニューエイジ」の意味するところはなんでしょうか?)として適切に述べられるかもしれない時を示す徴となるのです。「意識変革」というフレーズは、集団的な内なる変革への必要性を述べるためにしばしば使われますが、そのようなでき事は何世紀またさらには何千年もかかるかもしれないことを現在の社会の構造様式は意味しますが、私たちにそのような時間はないのです。
従って、聡明さ、愛、正しい関係の平明な道へと私たちを新たに方向づけるために、人類が再び立ち上がることを助ける聖なる介入が必要なようです。恐らく、自滅的生活様式と無関心な態度を劇的に放棄する必要性を私たちに納得させるキリスト自らの再臨なくしては、豊かな地球の富を分かち合う新しい方法と目的へのインスピレーションを与えるキリストのような経済学者が必要でしょう。しかし、例えキリストが俗世への再臨を宣言したとしても、彼の偏在する愛の永遠の手段を通してハート時代を開始することは、それでも私たちにかかっているのです。キリスト原理の真の意味が、クライマックスに達するこの時代の激化する危機に対して極度に分極した反応をもたらしたとしても、それはどれだけ簡素で非独断的であることでしょうか。聖書の観点から、それは古いあり方と新しいあり方の間の衝突を生む裂開の剣として解釈されるかもしれません − 自由と正義の包括的道か、あるいは地球のすべての生命の絶滅を切迫してもたらしている偏狭で競争的な道のどちらかを最終的に人類に選択させます。
希望的な結果は現在のところ保証されているように見えないかもしれません。そしてそれは、裂開の剣が正しい霊的方向で持続されるために確かな保証となる第25条を平和的に布告する愛のほとばしりなくしては、そうあり続けるでしょう。ひいてはその剣の現実はこれまでにないほど一層はっきりと感じられ、そして回避できない反動的多数派からの猛烈な反対にもかかわらず、人類は進むべき道をさらに明白に知るでしょう。第25条が施行可能な国連の法として謳われるために正しい方向に進むなら、世界規模でUBIを実現するための適切な手段も人間の意識のなかでより明瞭になるでしょう。なぜなら、あなたが思いだすだろうように、第25条はUBIの母を象徴し、そして両方が分かち合いの原理と不可分に結びついており− 娘は、世界にすでに存在する母なくして決して生まれることはないだろうからです。[36]
分かち合いの原理を聴くには、ハートを通して聴き考えることを学ばねばならず、その普遍的教えの方式は私たちにとって親しみのない種類のものかもしれませんが、それはきたるべきハート時代の偉大な教育者なのです。それが、分かち合いが霊的に意味することを私たちがどのように徐々に理解していくかということです。なぜならその真の意味合いは、待ちに待ったハート時代、あるいは愛の時代としてより良く言い表されるかもしれない時代を私たちが最終的に経験する時に唯一明らかになるだろうからです。これはセンチメンタルなようですが、恐らく、私たちの幼少時代から長期にわたって抑圧されてきた感情と最も深い内部の切なる思いからそんなにかけ離れていないかもしれません。今後起こるだろうことにおいて果たすべき重要な役割を各人が担っています。それは、ハートを通しての不断の献身と世界規模の参加を持って他者に仕えることへの呼びかけ以外なにものでもないのです。従ってUBIへの呼びかけは、愛への呼びかけ、奉仕への呼びかけ、お互いと地球への思いやりへの呼びかけとしてより深い霊的意味で解釈、理解されるなら、その包括的意味においてまさにそのような呼びかけなのです。
UBIの霊的性質を繰り返し強調する理由は、物質的および主観的側面からお金自体も他のすべてのもののように、集団としての個々人の内なる変革に適応するエネルギーの形態だからです。お金の物資的形態および心理的価値は、人間の意識の段階的拡大を追うことから、今日知られる「お金」「利益」「収入」そして「賃金」のような(社会が作った)概念がもはや存在しなくなるまで、異なったエネルギーの特質をまた呈していくでしょう。正しい人間関係がさらに明確に表現された意味を持つよう私たちが社会を構築し始める時、お金の必要性および普及率は自然と減少し始めるでしょう。
運動家のコミュニティのなかには、お金のない世界への突然の移行を待ち望む明確なビジョンを持ったグループがいますが、私たちが考察したように、これらの理想化された想像は世界変革の内なる側面を説明しているのでしょうか?私たちの展望から、そのような変革はどんなものでも、恵まれない人々の苦しみの緩和へと向けられた大規模な一般参加を持って開始せねばならないことを留意してください。意識の転換は、政策理念の転換や、提案された技術的解決策への政府の態度の突然の転換とは違うことを注意して念頭に留めておくことが適切です。私たちが言及している意識の転換は、集合体における人間の意識の拡大と進化に関係しています。そしてそれは、私たちの最も貧しい人々の確立された権利を支持する世界のデモンストレーションの統一によって即時に反映されるように、私たちの真の霊的な性質および運命への集団的目覚めを通してのみ起動できるのです。
その長期に渡る素晴らしい出来事の結果として、私たちがここで話している意識の転換は、安全性、自由、創造性、寛大さの内なる体験を通して生活するということの意味をその時初めて知るだろう無数の個人や家族にとって、最も驚くべき迅速なペースで正しい霊的方向に沿って拡大し続けるでしょう。その時、永遠の霊的真理への意識と、最終的に科学的に証明されるかもしれない魂の存在の現実を明らかにすることを求めてさらに非物質主義的な方向へと意識を拡大することを私たちが求めると同時に、不朽の知恵の教えが人類にとって計り知れないほど重要になるでしょう。[37] 結果的に、お金の意味と使用が余りに予想外の形で展開するだろうため現時点では具体的な予測は不可能です。私たちには、より目覚めた協力的意識が、物々交換または交換の原理に基づいた新マクロ経済に反映されるだろうその輝かしい未来文明がどのような様相を呈するかという僅かな兆しを唯一思案できるだけです。[38]
これらの結びのコメントのなかで私たちが説明しようとしている主要な点は、UBIのアイデアには、最初に見て取れる以上のものがあるということ、そしてその存在は、私たちの想像を越えたさらに大きな全体の比較的小さい、過渡的な部分だということです。私たちが示しところどころで概説してきた光の道を進むことを最終的に人類が決定すると仮定すると、その移行期間は長い間続くかもしれません。その道自体は無限に長く未知の驚異によって特徴づけられていますが、私たちはまだその運命の約束の地に足を踏み入れていません。そしてその一歩は、人類の進歩のなかで世界的なUBIが位置を占めるだろうところの輝かしい時代の前兆となる分かち合いの原理を通しての愛の爆発あらずして、踏みだされることはないでしょう。
注釈
[1] この追求で言及されているベーシックインカムは、著名な支持者や革新的運動組織によって概括的に思い描かれているように、想像できる最も理想的なタイプである。一般的に受け入れられているベーシックインカムの理想的特徴は:それが普遍的であること、例えば、特定の国または地方の居住者全員に自動的に事前に支払われること;(できれば子供のための低めの額も含み)各個人に現金給付の形で、そして均等な金額が、例えば、どの世帯または家族であろうと状況に関わらず支払われるべきであること;それは無条件でなければならず、例えば、収入調査や素行に対する必要条件またはそのお金がどのように使われるべきかという制約なくして提供されること;そして例えば、破産や借金での差し押さえなどによって取り消されるという脅威なくして、定期的そして規定通りに給付されるべきである。これらの特徴は、複雑な収入調査が必要かもしれない、目標とされた手段である「最低所得保障」または「負の所得税」提案などの多様な形態から特に、真のUBIの定義をはっきり区別する。
[2] ベーシックインカムは社会福祉制度を民営化するためまたは裕福な先進国の僅かに残った福祉国家の部分を実際に廃絶するための手段として導入されるべきでないことは、殆どの支持者に一般的に受け入れられている。STWRは、ベーシックインカム・アースネットワーク(BIEN)で合意された位置を確固として支持する。例えば、「『どのレベルであろうと、UBIの導入によって』置き換えられた社会福祉制度や権利」が、恵まれない人々、弱者または低所得者の状況を悪化させる場合は、それに反対することなど。筆者の意図はこの論点を詳細に掘り下げることではない一方、STWRが確固として連帯主義的および民主的原理に基づいた社会政策を支持することもまた強調されねばならない。従って私たちは次のことを認識する − 現在の優勢的な経済パラダイムの状況下で − 革新的活動家にとって最も即急で合理的な応答は多くの場合、共同資金が供給される社会福祉と確立された労働者の権利を守ることである。
[3] 世界人権宣言第25条(国際連合総会決議217A):(1)すべての人は、衣食住、医療および必要な社会的施設等により、自己および家族の健康および福祉に十分な生活水準を保持する権利並びに失業、疾病、心身障害、配偶者の死亡、老齢その他の不可抗力による生活不能の場合は、保障を受ける権利を有する。(2)母と子とは、特別の保護および援助を受ける権利を有する。すべての児童は、嫡出であると否とを問わず、同じ社会的保護を受ける。
[4] モハメッド・ソフィアン・メスバヒ、世界人権宣言第25条を布告する:人々の世界変革のための戦略、Matador books, 2016。
[5] 私たちが第25条に例外的にフォーカスを絞っているのは、1966年に国連総会によって導入された経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約 (ICESCR)の中核的規定に具体化された、尊厳ある充実した生活のために必要なその他の基本的権利を無視しているということではない。これは、社会保障、教育、および文化生活への参加の権利、そして適切な保護を備えた公正な仕事を認識するそれらの労働基本権に関する条項である。「国民の権利として、彼らの収入とは別に、社会のメンバーである各住人への、彼らの基本的ニーズを満たすのに十分な…国家によって支払われ、財政改革を通して融資された、無条件の定期的収入への権利」としても認識されたベーシックインカムへの権利はまた、万国文化フォーラムのバルセロナ2004とモンテレイ2007の機会に市民社会活動家によって編集された出現する世界人権宣言にも謳われている。
[6] 同調した世界規模でのベーシックインカムの決定的なビジョン実現の可能性を概括的にパート4で考慮しているが、僅かな学者や草の根組織によって促進される推論的アイデアのように、ある種の超国家的な政治的集団によって支払われ融資されるグローバル・ベーシックインカムを私たちが想い描いているのでないことが初めから強調されるべきである。普遍的導入のためのこれらの提案が、極貧根絶にフォーカスを絞っている点でユニークで賞賛に値するかたわら、UBIは第一に、主権国家によって常に管理、統制、融資される必要があることは私たちの考察のなかで当然とされている。明確にすると、STWRは、中央集権的な行政機関を介して世界のすべての人にベーシックインカムを直接に再分配する機能を果たす、革新的な所得税のグローバルレベルのシステム(あるいは、国際歳入を上げるためのより革新的な提案)を提唱しているのではない。それとは反対に、民主的に改革された国連の将来の重要な役割を私たちは想い描いている − 完全なUBI構想を各政府が確立することを可能にするプロセスの促進という役割である。これが、パート4の考察の方向性である。
[7] パート1から明確になるであろうように、完全なUBIは現在、政治的に非現実的または実現不可能で、グローバル経済システムが広く構造改革された状況でのみ実行可能だと考えられている。確立された福祉国家をもつ殆どの裕福な先進国における(その理論上の良し悪しは別として)即時の可能性としてだけでなく、各国内の永続的システムとしてUBIを達成するための手段についても私たちは考慮する。それゆえ、この考察の目的のためには、既存の条件下で、各国のための提案として、UBIを支持する多くの技術的議論を検討する必要はないと考えられる。これは、不安定な雇用の現実などを反映できない社会保障構想のより良い代替を作ることを狙った福祉制度に関連する「貧困の罠」を克服するための、政府の生活保護金の提供を効率化することについての論議を含む。関心のある読者は、これらの課題を探求する豊かな文献を容易に調査することができるだろう。
[8] この追求は、UBIの正当性について論議することを意図したものでないながらも、これらすべての要素を組み合わせたものが説得力のある全体的な正当性を示していることを指摘する価値はある。このテーマに関する様々な文献に説明されているように、GDPの容赦ない追求と上昇する失業率に関連した解決困難な問題の新たな解決策が必要とされる。能力あるすべての人の正規雇用という伝統的政策目標は − 戦後の社会的契約を形成した、国家、個人、資本の間の相互依存する関係に基づき − この新たなグローバリゼーション時代においてもはや社会の拡大する逆境に対する意味ある対応ではない。大部分が、ますます向上する技術的効率性を持つグローバル生産チェーンが原因で、必要な資本に対して世界人口の大部分が余剰状態であり、グローバル・サウスの何百万もの人々は現在、現実的な雇用の可能性がないまま成人している。将来への技術的およびデジタル的な変革の完全な影響規模については議論の余地があるが、そのうち労働力のほぼすべての部門に大規模な混乱をもたらすことは確実である。製造およびその他の産業のオートメーションが、やがて未熟練労働におけるさらなる大規模な解雇を起こす可能のある発展途上国が、最も不安定なことも確実である。それにもかかわらず、捉えどころのない完全雇用という目的は、経済的および社会的観点から持続不可能というだけでない。より少ない労働による断続的な生産増大にかかわらず完全雇用をたとえ持続できたとしても、この永続的な資源襲撃に地球自体が耐えられない。資源の消費をさらに煽るように、さらなる生産、さらなる労働、そしてさらなる経済拡大という − 貧困および不平等に取り組むための古いやり方は、生態学的成長の限界(それをもし超えていないなら)の寸前まで既に人類を押しやっている。従って、これらの不両立を解決する新マクロ経済の探求において、UBIは、定常経済とさらに簡素な生活様式をどう達成できるかについての答えの相当な部分を占めるかもしれない。実にUBIは、生産的貢献と収入の関係を絶ち切るほどの持続可能な社会の代替的ビジョンの道を示す − それは、1930年代にジョン・メイナード・ケインズさえが躊躇しがちに夢見た、増え続ける富の道の盲目的追及でなく、仕事をもっと広範に分担し余暇の時代を楽しめる社会である。それから後は、仕事の性質および目的を再び概念化することによって、最も重要なことを人々が優先できるようにする;それは、コミュニティの再構築と人間関係の育成、お互いと地球への思いやり、自発的な簡素さと生きる術を通しての人生の霊的意味の探求などである。従って、完全なUBI構想が、機械生産された富の収穫の平等な分かち合いを保証することに役立つかたわら、やがて技術的進歩は、最大の物質的効率と最小限の人間の労力を持って、社会の基本的ニーズが生産されることにより、物質の奴隷となった状態から最終的に人類を解放する手段となり得る。これは、筆者を含めた多くのUBI支持者によって心底受け入れられているように見える、さらに自由で平等な参加型世界の基本的ビジョンを象徴する。しかしながら、パート1に要約された不吉な動向を考慮する時、私たちの考察の下地となる考慮すべき問題は、この希望に満ちたビジョンに人類が安全に辿り着くための手段に関係している。
[9]「適切な生活水準」を保証するためにどれだけの資金が必要かということは複雑な問題である。そしてそれは国によって大きく異なり民主的討論および調整に左右されたままとなるかもしれない。しかしながら一般的にUBIの金銭的価値は、全国民に基本的な経済安全保障レベルまたは(普遍的な社会福祉およびその他の福祉プログラムを組み合わせて − 注釈2を参照)必需品のすべてを充足するのに十分な「社会保護フロア」を提供するという意味での「基本」として理解できる。従って、部分的構想または導入レベルの構想が、この最終目標達成への最も実際的ルートかもしれないことを心に留めながら、各国における最も完璧で、普遍的意味で「充実した」「生活を維持できる」または「ハイレベルな」UBIの可能性を私たちは想い描いているのである。完全なUBIが最貧困者のためのその他の無拠出制の社会保護策および既存の拠出制の社会保険制度をすべて置き換えるべきか否かという立場をとることは、この議論の範囲を超えている。この段階では、完全なUBIの特定額または最終形態が国々によって大きく異なるかもしれない、UBIの特定の構造に極度の重点が置かれるべきでないことを良識が証言するだろう。ベーシックインカムが自動的にすべての既存のトランスファーと国家のその他の福祉手当の形態を置き換えることが当然とされるべきでないことは確かである。
[10] ファン・ルイス・ビベス(1492年~1540年)は事実、早くて1526年に必要最低限の生活のための制度についての論議と詳細な計画を立て始めた最初の人物として考えられている。「貧困者への援助について」と題されたブリュージュ市長へのメモのなかで自然とその資源について書いている:「神は、彼が創造したすべてのものを彼の子供たち全員が共有するように、門や壁で取り囲むことなく世界という私たちの大きな家に入れてくれた」その2世紀以上後、よく知られているように、トマス・ペイン(1737年~1809年)はベーッシクインカムの概念の下地となる不可欠なアイデア、すなわち、チャリティでなく万人に分配される基本的給付の形態をとるべき権利として、高齢者と貧困者が公的援助を受けるにふさわしいとする概念を発達させ始めた。「土地制度の導入を通して喪失された個人の自然な相続遺産の部分的な代償として、15ポンドという額が国民基金から21歳になったすべての人に支払われるだろう」とその正当性を論議するペインの小冊子 農民の正義に「貧困とは…、文明的生活と呼ばれるそれによって生みだされたものである。それは自然な状況では存在しない」と彼は書いている。ペインの不滅の言葉:「未開拓の自然な状態のままであったなら、地球が人類共通の財産であり続けていただだろうことに反論できる余地はない」
[11] 「ベーシックインカム」についての通常の記述とは対照的に、G・D・H・コールやジェイムズ・E・ミードのような初期の学術理論家だけでなく、ガイ・スタンディング、ピーター・バーンズ、チャールズ・アインシュタイン、ジェイムズ・ロバートソンやその他のジョージズムの思想家など多くの現代著者によっても長い間提唱されてきたように、「配当金」という言葉が多くの理由から好まれている。(「人類の共通遺産の分け前として全国民に支払いが可能な権利としての配当」というコールの言葉のなかで)このように政策の骨組みを作ることによって、社会正義を基盤に幅広い公衆の支持を得る可能性がさらに強まり、実にベーシックインカムは社会の集団的富に基づく普遍的権利であるべきだという認識が生まれる。この論理的根拠は、19世紀および12世紀の社会保険構想を支えた直接的貢献、および共同出資されたリスク分担構造に基づく古い労働者の社会的団結原理とは顕著に異なる。「すべての人への配当金」のアイデアが「無条件の給付金」への偏見的な反対を乗り越える可能性がさらに 強まるだけでなく、それはまたそのような構想に資金を供給するための最も革新的なオプション – 地価税、知的財産権からのロイヤルティーや特許への課税、再生不可能な天然資源(あるいはその他の共有財産の形態)の売却に基づいた主権国家資産ファンドなど − とも自然に合致するのである。しかしながらこの新たな進化段階において、「ユニバーサル・ベーッシクインカム」という言葉が、その親しみやすさと高まる人気のため、この考察を通して使われている。この「ユニバーサル(全世界の、普遍的な)」という言葉もまた、世界人権宣言に謳われている道徳的熱望と合致するかたわら一般的に最も認識されている言葉であることは明らかである。
[12] 費用負担の問題は幾分物議を醸しており、そして現在の条件下で全市民のためのベーッシクインカムが拡張的な福祉国家と財政的に適合するかどうかということへの率直な答えはない。UBIの導入を具体化しようと試みる殆どの研究は中立予算の設定のもと検討され、その導入が勤労者世帯のための(すべてでなくとも)他の現金手当の殆どに取って代わるという想定に多くの場合基づいている。これに基づいて、限られた福祉予算が人口全体(または定年前のすべての人)に均等に広げられるだろう事実を考慮すると、UBIが貧困と不平等を削減する効果的手段であることを証明する可能性は低く、それは既存の保証された最低限の現金手当より少ない経済的援助を持って最貧困世帯を取り残す。しかし、UBIシステムがどれだけ革新的になるかという問題、そして収入に応じて高所得者を増税することにより資金を供給するかどうかなど、特に考慮すべきより大きな事柄が数多くある。収入調査や素行に対する条件の廃止、そしてこの新しいトランスファーによって不必要となる他のプログラムや税額控除の完全または部分的強化を含んだ、その他の行政上および経費の節約についてもまた説明される必要がある。なによりも、政府の予算優先順位の問題、そして、特に軍事、アグリビジネス、化石燃料産業など他の分野に支払われる後退的な補助金から支出を切り替える可能性が検討される必要がある。経済モデルを定量化することは難しいながらも、財政的中立性が存在するという想定においてさえ、補助金の撤廃が、全世帯を相対的所得貧困ライン上に保つUBIを正当化するのに十分な歳入を解放できるだろうことは確かである。しかしながら、私たちが想い描いている生活を維持できる充実したUBIは、さらに幅広い経済の改革、そして真に無条件のベーシックインカム構想に資金を供給するための代替的手段の実施なくして、疑いなく実行不可能である。これに関するさらなる詳細は注釈29を参照。
[13] モハメッド・ソフィアン・メスバヒ、「商業化:分かち合いの対極」、シェア・ザ・ワールズ・リゾースィズ、2014年4月。
[14] この方向性の追求は、分かち合いの原理についての以前の考察の多くの基盤を成す。例えば、「主義についての講話」、2014年7月を参照;「天候危機」の取り組みにおける「気候危機の取り組みにおける政治と霊性の交差点」、2016年6月;「クリスマスとシステムと私」、2013年、これらはすべて分かち合いの原理についての考察に掲載されている。
[15] ここで引用されている世界人口増加の予測は、私たちの著書 世界人権宣言第25条を布告するでも論議されているように、決して避けられないものではない。国連の見積もりは、2100年までに112億人を超える中間予測を持って(国連経済社会局が発表した統計2015年改訂版によると、およそすべてが貧困国において)、2050年までに現在の75億人から97億人に人口が増加すると予測している。しかしながら、世界資源の正しい再分配と第25条に謳われた人権の普遍的実現を通して、時間の経過とともに世界人口が大幅に減少するための条件が(自然かつ自発的手段を通して)もたらされるだろうことは予見可能である。これは、発展途上国から先進国への移行の歴史に証明されているように、家族が十分な生活水準に恵まれている時、人口レベルが減少および安定するという証拠によって裏づけられている。
[16] 2012年にSTWRは、貧困が原因で毎年約1500万人が不必要に死亡していることを割りだした。この見積もりは世界保健機関(疾病および負傷の地域別推定値、原因別死亡率:2008年度の地域別推定値)の統計に基づいている。WHOによって「グループ1」原因として分類される伝染性疾患、母体疾患、周産期疾患および栄養性疾患のみがこの分析で検討されたが、これらの原因によるすべての死の96%は低所得国および中所得国で発生し大部分が予防可能だと考えられる。シェア・ザ・ワールズ・リゾースィズ、グローバルな分かち合いの経済に融資する、2012年10月を参照。
[17] ウイリー・ブラント、南と北ー生存のための戦略(ブラント委員会報告)、MIT Press, 1980。Willy Brandt, Common Crisis, North - South: Co-Operation for World Recovery, The Brandt Commission 1983. London: Pan 1983も参照。
[18] ブラント委員会の提案に続いて1981年10月、世界の貧困問題における長期化した交渉のいき詰まり解決を狙ったサミットのために、先進国8カ国と発展途上国14カ国のリーダーがメキシコのカンクンに集合した。世界的な交渉を進展させる勢いと善意を生むという希望のもと、国家の代表的リーダーを2日間の非公式会合に招集したのであった。しかしながら最終的に、確固とした提案は実現せず、資源の世界的再分配へのグローバル・サウスの要求は満たされないままとなった。アメリカ合衆国のロナルド・レーガンは、少数派の先進国と多数派の途上国の経済的格差の間に橋を架けるというサミットの目的を顕著に拒否した。ブラント委員会の提案のすべてが現在の状況に適すのでない一方で(特に、急速に環境的限界に近づくこの時代における拡大した貿易の自由化と「グローバルなケインズ」の財政刺激策の強調など)、政策立案者と市民社会活動家がその「優先事項プログラム」とより公正な世界のビジョンから引きだせる多くのものがまだある。とりわけ、これには、発展途上国への大規模な資源の移動と広範囲にわたる農業改革を必要とする、提案された5年間の緊急プログラムが含まれる。委員会はまた、新しい国際通貨制度、開発金融への新しいアプローチ、軍縮の調整されたプロセス、非再生可能エネルギー源への依存からの世界的移行を要求した。これまでのところ、政府は、「関連する国際機関の支援と協力を得て、すべての国家間で南北問題の全範囲を議論するための」多国間プロセスのブラントのビジョンをまだ実現していない (Common Crisis, 1983)。
[19] スピーナムランド制度は、18世紀末バークシャー地方で適用された救貧法の一時的な改正である。食料価格の高騰から生じた農村部の貧困と苦難に対処するために、首相ウィリアム・ピットによって導入されたそれは、自治体内の貧民の稼ぎが最低生活水準に達するよう差額を補助し、小麦価格に固定された割合で家族の各人が現金手当を受ける資格が与えられたところの、世界初のベーシックインカムのひとつとして考慮できる。その当時、働くことを強要することなく、貧困層に公的支援の権利を与えるという原理より、民間慈善団体を一般的に好んだ − トマス・マルサス、デヴィッド・リカード、エドマンド・バーク、アレクシ・ド・トクヴィル、G・W・F・ヘーゲルおよびその他の − 著名な思想家からの相当な反対のなかでその構想は重要ながらも学術的論争の的であった。1834年に発表された王立委員会報告は、「被救済者の普遍的な制度」としてスピーナム構想を非難し、そして救貧院外でのすべての貧困援助を廃止するよう勧告した。こうして、著名なチャールズ・ディケンズの小説 オリバー・ツイストに描写されているように、援助を申請することから極貧者以外は阻止するよう意図された、救貧院の耐えがたい状態によって特徴づけられたイギリスの新救貧法時代が始まった。それにもかかわらずやや意外なことに、その約150年後の1969年に、連邦議会を通してすべての世帯に最低収入を保証しただろう意欲的な公的援助プログラムをニクソン大統領が推し進めようとした時、スピーナムランドの実験の悪名が再び出現した。後の記述によると、ニクソンに彼の計画を思いとどまらせたのはカール・ポランニーの影響力のある著書『大転換(1944年)』のスピーナムランド制度についての批判であった。それは結果的に、国家福祉を受けるための必要条件として雇用または職業訓練をもたらした − 「ウエルフェア(福祉)」でなく「ワークフェア(社会保障手当支給の際に、受給者に就労を義務づけること)」だとテレビ中継の最中にニクソンが述べたとして悪評が立った程であった。幾分皮肉なことに、ポランニーが宣誓したという王立委員会報告は、1960年代と1970年代に歴史家によって再調査され、それが、実証されていない証拠と誤った方法に基づいていたということが発見された。より最近の研究によると、スピーナムランド制度は、実際にはその手当が信頼できる方法あるいは真に普遍的基盤で支給されていなかったという事実にもかかわらず、全地域に至って貧困削減と一定レベルの経済安全保障の提供に比較的成功していたかもしれないことが指摘されている。しかし、仕事嫌いで役立たずの貧困者についての伝説は、今日まで持続し、スイスにおける世界初のUBIの国民投票中再度目撃されたように万人のための無条件のキャッシュトランスファーのアイデアの広範な受け入れを阻止している。このスイスの国民投票は前例のない国際的議論を巻き起こしたにもかかわらず、生活を可能にする2500フランク(年間約3万ドル)という額を毎月UBIが全国民に支払わねばならないだろうという誤解が − メディアによって世間一般に広げられた誤った事実であり − 投票者の78%の拒否を持って大衆の支持を思いとどまらせた。この観点から、およそすべての真剣な支持者が、「完全な」ベーシックインカム(例えば、基本的ニーズを充足するために十分な額など)を一足飛びに達成するには非現実的な目標と見なし、代わりに最も実行可能な最初のステップとして、(例えば非常に低いところから始まる普遍的構想、または選ばれたグループから徐々に全国民へと拡張する目標という構想など)「部分的な」ベーシックインカムのいくつかのバリエーションを選んでいるということは再び注目に値する。
[20] 注釈3、4、5を参照。
[21] 世界人選宣言第25条を布告するを参照。
[23] 注釈31を参照。
[24] 世界人権宣言第25条を布告する、op cit.のP74に、以下のように記されている:「従って、抵抗最小限の道を選び、共に第25条を迎え入れましょう。それが、資源を再分配しグローバル経済を再構築するよう政府を駆り立てるための最も確かな経路であることを知りながら。私たちが探す答えのすべてがそこにあることを知る安心感のなかで、そのような要求は私たち自身の創造的方法で表現され得ます。ひいては、現在、分かち合いへの呼びかけが初期形態で表わされている富裕国などでも、世界の活動家の既存の要求の多くがすでに世界人権宣言に具体化されていることを私たちは認識するかもしれません。この点から、アクセシブルな社会住宅、施設と交通機関の公的管理、医療と高等教育の無料提供、または公平な課税を通してのより平等な再分配的社会のための多様な運動を観察してください。これらの準備的な線に沿って分かち合いの原理が各国内で制度化されるべきことは間違いなく、そして従事する市民が各自の社会でこれらの課題の推進に熱中するのは自然なことです。しかし、私たちの問題は根本的に他国のそれと同じであることをもまた認識せねばなりません。なぜならそれが私たちをひとつにし、(平和的ながらも)抑えられない国際勢力にするだろうからです」
[25] cf.世界人権宣言第25条を布告する、op cit., p. 87。
[26] 例を挙げると、通常働く義務またはその他の求職義務の条件を通して、責任と互恵を国の手当の受取人が明示すべきだという想定に基づき、ベーシックインカムが貧困者に「タダで現金」を配布しているという偏狭な異議など。同じように、貧困者への現金配布は、必需品の代わりにアルコールやタバコなど「悪いもの」への個人的出費をもたらすだろうという広範にわたる偏見がある(キャッシュトランスファー構想の研究結果によって広く反証されているもうひとつの道徳的推測である)。人間は元来怠惰であるという固定観念にいまだ基づいたより複雑で幾分技術的な反論は、義務に縛られない無条件なベーシックインカムが、働くことに阻害要因をもたらすというものである。理論的議論と経験的分析の両方を用いて、ベーシックインカムの支持者は、労働供給の減少に関するこの懸念に異議を唱えることに多くのエネルギーを注ぎ込んできた。いわゆる「貧困の罠」をもたらす、低賃金またはパートタイムの仕事につこうものなら、収入調査つきの手当の取り消しによって申請者が脅されるという、目標の福祉プログラムに既に存在する阻害要因を、UBIは実際取り除くだろうと多くの人々が主張している。実に、国民が適職を選ぶ大きな自由を持ってより大きな創造性が解き放たれるところの、そしてさらに平凡な仕事をオートメーション化するため、あるいはより高い賃金によってそれらの仕事を魅力あるものにするために、新たなインセンティブが雇い主にもたらされるところの、真に自由な市場をUBIが扇動するだろうことを提唱者は想い描いているのである。1960年代と1970年代に北アメリカにおいて実験から得られた、ベーシックインカムが労働供給を削減するという典型的な経験的証拠もまた、仕事の性質についての偏狭な臆説に基づいている。賃労働レベルでの(多くの場合、小規模な)変化が慎重に研究される一方で、無賃労働への影響 − 子供や親戚の世話、自己改善のためのより良い教育への着手、地域社会のためのボランティアなど − は、これらの計量経済学的分析では一般的に考慮されない。それにもかかわらず、これら別の仕事形態の成長が、ベーッシクインカム保証の開放的効果について考察する際重要なのである。なぜなら、経済学者の専門用語を取り入れるなら、人間の労働がますます「非商品化」される − 仕事に対する経済的インセンティブが必要なく、賃労働がもはやもっぱら神聖化されることのない − 世界についてここで話しているからである。私たちが情熱を注ぐものが私たちの天職になるかもしれないし、私たちの仕事に関する概念は、真の価値と意味をもつ活動に向け直されることが可能であり、そして他者に仕えるという私たちの先天的傾向は育まれ報われることが可能である − そのすべては、自己中心的で怠惰、そして報酬に値しないだろう人間のビジョンとはあまり関係ないのである。
[27] 特に以下を参照:「人類のコモンズ」、2017年4月;「真の分かち合い経済:ハート時代の幕開け」、2016年11月;世界人権宣言第25条を布告する、パート4、op cit., これらすべては分かち合いの原理についての考察に掲載されている
[28] 世界人口の動向についての前述の注釈15を参照。
[29] 以下は、既存のグローバリゼーションの状況下でなぜ完全なUBI構想が非現実的かつ経済的に持続不可能なのかというふたつの主な理由である。第一に、選択的移住によって真の構想の実現は危険にさらされる。そのことは、先住民保護政策の脅威といわゆる「福祉の磁石」になるという問題に立ち向かうために、解放された国境を持つ国がベーシックインカム保証の条件をより乏しくかつ厳しくするよう圧力をかける可能性がある。第二に、この下方への圧力は、労働、環境、課税の規制における「底辺へのレース」によって強化されるが、これは、現在の形態の経済的グロバリゼーションの特色である。例を挙げると、様々な形態の租税回避や脱税によって毎年失われる数十億ドルに加えて、法人税率はグローバル・ノースおよびサウス双方で過去30年に渡って劇的に引き下げられた。その結果、公共部門の収入基盤は常に被害を被っており、そして企業のロビー活動、企業優先の税制政策および効果的な国際税務協力の欠如の深まる動向が原因で、その状況には改善の兆候はなにひとつ見られない。それは、前例のない個人的富の蓄積と企業部門の拡大する市場集中を可能にする一方で、強力な安全網と普遍的な社会政策を政府が維持することはもとより、全国民のための十分なベーシックインカムを導入する展望などはますます実現不可能となりつつあることを証明している。
[30] これは注釈6でもまた強調されている。
[31] グローバル基金への資金供給は、教育、医療、エネルギー、インフラストラクチャーなどを提供することにおけるグローバル・サウスの莫大なニーズを充足するために、富裕国から流れる外国援助を含んだ多くの形態をとるかもしれない。グローバル・ノースからサウスへの大規模な資源移動は数年間必要であり続けるだろうし、(注釈17を参照 − ブラント報告が顕著に提案したように、理想的には自動的メカニズムを通しての移動)短期的に国際資金を調達するための無数の選択がある。特に、国際租税実施の可能性などが経済学者によって長い間話し合われてきた。それは以下のものに対する課税を含む:国際貿易、武器貿易および軍事支出、航空旅行や貨物輸送;様々な種類の金融取引、あるいは「グローバル・コモンズ」の使用(海洋漁業、新海底鉱業、沖合での石油および天然ガス掘削、さらには宇宙空間の軌道の使用など)。さらに最近では、例えば、土地、あるいは社会によって受け継がれたかまたは共同でつくられたその他の資源など、「自然資産」からの収入への権利をすべての国民が共有するという認識に基づく社会配当のアプローチに従って、(労働や利益に対する課税は別として)永続的な公収入源をもたらすための革新的な提案を多くの学者が進展させた。殆どの提案の中心にあるシンプルなアイデアは、共有資源に使用料金を課し、コモンズに基づいた権利として、その収入をすべての市民に分配するというものである。この目的のために設置された行政機関は、民間部門と公共部門のどちらからも独立して運営されることが可能であり、土地や化石燃料から電磁スペクトルや知的財産に至るまで − 様々な共有資源の使用を管理する可能性をもった「コモンズ・トラスト」としてしばしば考えられている。共有資源の有用性から公収入を上げるという原理が一般的に国家的観点から考えられる一方で、それは国際レベルでも適用できる。理論的には、調達された収入の一部は万人のためのベーシックインカムとして頭割りで各政府に分配でき、それはグローバル・コモンズの公平な配当への万人の権利を反映する。明らかに大気は世界の共有資源であり、そして、公平で平等、および協力的な政府間の行動によって地球温暖化の脅威に取り組む差し迫った必要性を考慮すると、恐らくこの原理の世界規模での最も実行可能な適用は二酸化炭素排出に対するものであろう。これらの方針に沿って、営利目的の最高額入札者に排出権を一定期間販売し、世界的二酸化炭素排出の上限を特定のしきい値で設定することによって、(国際機関として機能する気候コモンズのトラストを通して)収入が全国民に平等に分配されるというビジョンある提案もある。分配メカニズムをどう考えようと、化石燃料から再生可能エネルギーへの転換を促進する一方で、炭素排出使用料のグローバル・システムが世界の公収入をもたらすことを促進する可能性は大である。もしグローバルコモンズの使用料からの収入が社会的配当金として国際的に分配されたとしたら、自動的な権利として発展途上国にかなりの経済的トランスファーを提供することが可能であり富裕国の世界資源の偏った使用への効果的な代償の機能を果たす。勿論、米ドルおよび他の準備通貨の覇権の代替として世界の通貨当局が発行する真の国際通貨の創造など、より公平で安定した世界の資金源を創造する方法について他の多くのアイデアがある。そのような妥当なアイデアのすべては、保障された生活水準を万人に提供することを促進するためのグローバルな所得再分配システム(あるいは実に、地球の限りある資源の搾取に対する使用料の徴収を通しての事前の分配システム)の時代が近づいていることを示している。
[32] 上記の注釈に加え、この問題についてSWTRの立場から強調すべき最も重要なことは、この惑星規模の革新的な政策解決策を腐敗なしでどのように長期的に達成するかという問題である。(分かち合いの原理についての考察シリーズの下地となる遥かに重要なテーマである)ハートの科学および人間の意識の霊的進化についての新しい教育の必要性に常に私たちを連れ戻す、世界変革の内なる側面に常に私たちは戻らねばならない。エピローグでの考察に先立って、アイデアだけでは世界を変革するには決して十分でないことを繰り返そう。特にもしそのアイデアが、富裕者から貧困者に再分配されるべき世界の富の必要性に集中されるなら。なぜなら、「再分配的正義」あるいは「富の再分配」のアイデアそのものが、霊的進化における本質的な平等性や「一体性」についての理解によって私たちの意識内で最終的に置き換えられ、人類の意識が違った方向に拡張し始めることができる前に、貧困者も富裕者も人生の目的と意味について教育される必要があるからである。人間の意識のこの変革なくして、万人の共益のためのグローバル政策のアイデアはあり得ない。人間の営みにおいて、パーソナリティ、暴力、競争的な貪欲および物質主義的な欲望が関与する限り、悪循環は容赦なく続く。経済成長に対する生態学的限界によってでなく、地球の未来の存続を根本的に真に脅かす「商業化の成長」に対する人間の限界によって定義づけられる悪循環である。筆者の見地からこの方向性に沿った追求は、政策解決策についてのどのような討議より啓蒙的である。なぜならそれは、文明的問題への真の解決の道を示す内なる変革の問題だからである − 私たちが切に望む意識変革の聖なる先駆者としての分かち合いの原理に基づいた解決策である。そしてその原理が、私たちが予測し促進しようと試みてきたように、第25条のための世界規模のデモンストレーションを通して解き放たれる時、より良い世界のための政策提案の多くは、一見、Uターンを経験し、そしてその時の緊急性に応じて、違った切迫感と即時の実行可能性を呈し始めるだろう。その重要な出来事をきっかけに、政策立案者が発見する第一のことはなんだと私たちは考えるのだろうか。答えは、ブラント報告書に含まれた重要な提案の再提出だが、今回は世界の環境危機にも同時に取り組む拡大された計画を必要とする − なぜなら、現在、貧困と環境危機の双方が、世界のすべての人と政府の緊急動員を必要とするからである。提案された国際公的資金調達の方法に関する上記の注釈について幾らかの背景を補足するために、これらの見解の要約を私たちはただ繰り返すのみである。なぜなら、前述の人類の意識の変革なくして、グローバル経済システムの再構築のために必要なレベルの信用や同意どころか世界の僅かな善意さえありないからである。以前にも増して豊かで技術的に進んだ世界において、飢饉、紛争、災害を防ぐための断続した国連からの訴えかけが多くの場合危機的な資金不足に苦しんでいることを思いだそう。もし政府が革新的な国際税務システムや共有資源の使用料に奇跡的に同意するなら、資金はどこに向け直されるのか?ますます拡大する軍国主義、商業主義および独占企業の世界において、集められた収入がすべての国で不可欠な公共サービスやUBI構想の資金供給に向け直されないことは確かである。根底にある問題が公衆の無関心および社会参加の一般的欠如によって特徴づけられている時、世界問題の永続的解決策を提供するのは革新的アイデアではないのである。それがなぜ、キリストのような偉大な世界教師が長い間、事実次のように言ってきた理由である:新たな平和と自由の創造においてあなた方全員に果たすべき役目がある。そしてそれがなぜ、世界情勢を改善するためのすべてのアイデアに極めて価値があるという理由である。しかしそれは、アイデア自体でなく、むしろ、人々の善意、認識、愛を呼び起こすために費やされる努力に最も価値があるのだが。
[33] すなわち、他人に対する偏狭な批判、分割的要因の創造および結果的なビジョンの欠落。
[34] 例えば、次を参照:世界人権宣言第25条を布告する、op cit;「主義と分かち合いの原理についての講話」、2014年11月。
[35] 自然界の各王国は直下の王国から発達し、 − 霊的王国または「魂の王国」として知られる − 人類より進化した第5王国は(キリストによって教えられたように)常に私たちと共にあったし現在徐々に物質界に顕現している。アリス・A・ベイリーの著書に説明されているように、その王国は「太古の昔から霊的目標を求め、肉体、感情コントロールおよび妨害的マインドの限界から自己を解き放したすべての者から成っている。その住民(殆ど知られていないが)は今日、肉体に宿り、人類の福利のために機能し、そして世界の運命を導くあの偉大な「啓蒙されたマインド」の一団を構成している」(The Externalization of the Hierarchy, Lucis Press Ltd, 1957)
[36] この全体的な論議に関して、コモンズの進化する知的概念、分かち合いの経済、そしてユニバーサル・ベーシックインカムの間の識別可能な関係に、私たちの他の著書を読まれた読者は気づくかもしれない。これらすべては、ふたつの平行した方法で繋がっている;第一に、(利益の動機に基づいた)商業化の根本的な問題の分析を通して。そして第二に、(物質的および霊的観点から)分かち合いの原理に人類の問題の解決策があるのだという事実への潜在的認識を通して。しかしながら、この考察シリーズのなかで様々に述べられているように、第25条を保証するという目標を中心とした断続的デモンストレーションを通して人類が結束するまでは、知的思想家にとって、これら三つの政治的概念の間の関係のより深い霊的重要性が意識的に明らかになることはないかもしれない。特に次を参照:人類のコモンズ、op cit;真の分かち合いの経済、op cit.
[37] 不朽の知恵とは、宇宙のエネルギー構造、人間と自然の意識の進化、そして「正しい人間関係」に重点を置いた私たちの人生の霊的現実についての古代の教えを指す。古くから芸術と科学におけるインスピレーションを提供する一方、主要な宗教的伝統の根底にある秘儀的または隠された様々な教えを結びつける黄金の糸としてそれは述べられる。何千年という古さにかかわらず、それらの教えは人々自身の人生や経験のなかで活発に表現され、漸進する啓示的性質のため「古代の」というよりむしろ「不朽の」として言及される。過去1世紀に渡って、これらの教えの現代的な適用は、神智学協会の創立者 H・P・ブラヴァツキーそして後にはとりわけアリス・A・ベイリー、ヘレナ・ローリッヒおよびベンジャミン・クレムの著書を通して西洋に広げられた。
[38] このテーマの別の展望については以下を参照:「真の分かち合いの経済」、op cit。
モハメッド・ソフィアン・メスバヒは STWRの創設者である。
編集協力:アダム・パーソンズ。
翻訳:村田穂高