非商業的な分かち合い主導型の世界を特徴付けるべき新意識を表現するためのユニークな機会を、このクリスマス休暇期間は提供します。派手な消費に時間を費やす代わりに、貧困者を助け環境を癒すための大規模な会合を計画することによってクリスマスを祝いませんか?
一年のこの時期、豊かな西洋諸国での過剰消費生活様式は無視出来るものではありません。無意味なイメージを装うために不必要な品物に、無いお金を費やし続けるようにバックグラウンドでクリスマスソングがショッピングモールでかかると同時に、明るく灯された店はお祝いの食べ物と高価な贅沢品で溢れています。
一般的な西洋諸国の生活様式が地球を破壊しているという気候科学者の警告のすべてにもかかわらず、クリスマスの熱狂的な商業主義は想像以上の割合で激化し続けています。それでも、一直線に並べるとロンドン−ニューヨーク間を往復出来る程のクリスマスツリーをイギリス単独で買っています。ビッグ・ベンをおよそ26万回包むことのできる程の包装紙がこの国で捨てられています。一月がやってくる時、捨てられる4千5百トンのアルミホイル、2百万のターキー、7千4百万個のミンスパイ、そしてボールに大盛り5百万杯分の(破棄されたクリスマスプディングからの)レーズンについては言うまでもありません。殆どが不必要なギフトとして購入されやがて破棄される − 電子機器製品からの電子ゴミの山は2020年までに一千万トンに達すると推定されています。
それが象徴する生態学的破壊と並行して、イギリスの人口の年間のゴミの規模を思い浮かべてみるために、少しの間一時停止して下さい。クリスマスは、消費社会における私たちの生活を特徴付ける甚だしい物質主義の拡張されたただの実例に過ぎません。
認識がさらに難しいのは、私たちの無駄な消費癖もまた世界の不平等レベルを激化させているということです。いわゆる『発展国』− が世界人口のおおよそ16% − 地球資源の大幅に不均等な割合を消費しており、そして全グリーンハウスガス排出に対して少なくとも半分責任があります。そのような統計の裏には暗い現実があります:グローバル・ノースの人工的な生活水準が、グローバル・サウス全体で何百万もの人々の酷い労働条件と貧困化に依存しているのです。
トリクルダウン経済学の主張にもかかわらず、一日五ドル以下で生活する人々の数は1980年代以降11億人以上増えました。『発展途上』国に住む大多数の人々は一日十ドル以下で生存しています;彼らの中には、私たちが『普通』とする目立った無駄の多い消費をまかなえる家族はいません。
この持続不可能な世界秩序における個人レベルでの私たちの共謀行為は非常に複雑です。なぜなら、生存のために常に拡張し続ける消費主義に依存する、社会経済及び文化システムに私たち全員が捉われているからです。経済界を通して利益主導型ビジネスが私たちのニーズ(それが本当であろうと組み立てられたものであろうと)をますます充足しようとすると同時に、あらゆるところで購買欲を促進する商業化の影響に私たちはすっかり包囲されているのです。私たちの消費パターンは多くの場合、他の人や物への自己投影、特定のグループまたは階層など何かに属していたいという願望、快適さの必要性、自尊心などに結びついています。
私たち全員が、過度に商業化された文化、環境汚染や地球温暖化の犠牲者であるだけでなく、心理的及び感情的破壊にもまた何らかの形で苦しめられ危害を与えられている犠牲者なのです。私たちは、豊かさの中の貧困の時代を通して;個人主義的及び市場支配の社会で生活するプレッシャーを通して;競争の激しい仕事/消耗的な単調な仕事の中に失われた余暇、精神的空間、コミュニティの結束、心理的健康のすべてを通して;その危害を経験しています。
西洋の過剰消費生活様式が、私たちが知ることのない、また知ろうとすることのない貧困国の人々の貧窮化に繋がりのある搾取的な世界秩序の一部となることから発生する、言葉では表現不可能な霊的危害の形態もあるのです。簡単に言えば、世界中の消費パターンの巨大不均衡にも直面し、成長への衝動をともなわない経済を根本的に再考しない限り、貧困の根絶及び環境的持続可能性の達成というダブルチャレンジを一致させることは不可能です。
従って、貧困国が持続的に経済を成長させ全国民のニーズを充足できるよう、高所得国の天然資源の消費を削減する重要性について認識する、限りのある世界の経済成長後へのフォーカスの蘇生が必要です。公平性に基づいた持続可能な開発または万人のための「ひとつの地球での生活」を達成する必要性より、世界資源を分かち合うことの正当性の論議がより明らかで緊急を要するものはありません。それにもかかわらず、社会はこの重大な推移の開始から程遠いままです。
貧困者のための最小限の保護をもって世界を企業の行楽地へと転換する絶え間ない試みのなかで、再生された世界貿易機構の協議に政府らが出席すると同時に、気候変動への取り組みにおいて国際的結束を実証するために2017年末『ワン・プラネット・サミット』を開催したエマニュエル・マクロン大統領のパフォーマンスより、良い例が他にあるでしょうか。
グローバル正義と生態学的不均衡に関するこれらの問題は日常生活から遥かに切り離されているよう見えるにもかかわらず、国際的規模で断続する破壊は現代の消費社会に参加する全員の連帯責任です。繰り返して言うと、感謝祭とクリスマスの間の熱狂的消費がその適切な例であり、大衆消費社会が極端な市場主導型経済システムをどのように直接的に支え、経済成長後の世界への移行に必要となるだろう徹底的変革を受け入れることから私たちをさらに妨げているかということを明らかにしています。
事実、贅沢品を買うよう条件付けられた衝動を無視するよう提唱する『無買』運動のように、クリスマスを非商業化する方法が既に数多くあります。私たち全員が道徳的な寄付を実践し運動団体やチャリティ組織の取り組みを支援できます。例えば、クリスチャン・エイドは、世界飢餓に関連してお祝いの食事の食べ残しについて認識をもち、クリスマスの食べ物の買い物から - 南スーダンで一家族の一週間分の食事に十分な - 10ポンドを寄付するよう訴える機知に富んだビデオをリリースしました。
このような活動は、危機的な世界状況について、そして西洋諸国の人口が地球に優しい生活をする必要について、さらなる認識をもってクリスマスを祝うことへの小さなステップを構成します。クリスマス休暇を超えて延長される時その認識は、消費主義を拒否し、主流派経済を迂回しながら私たちのニーズを充足する生活様式に自発的にギアを切り替える大衆運動に転換され得ます。
ギフト経済、コモンズ、コラボレーション型消費などのすべての支持者が証言するように、これが大衆消費に対する長期的対抗手段です。コミュニティに再投資し、生活と福利の質に価値感を転換させ、充足性の新倫理を受け入れるところの代替的経済システムの共同創造主に、私たちはならねばなりません。共同生産、共同所有および市民参加を促進する協力的活動のための時間とエネルギーを解放するために、物質主義と私営化された生活様式への競争的経済の圧力に私たちは抵抗せねばなりません。手短に言うと、資源が分かち合われた世界で人間であることがなにを意味するのかについての理解を私たちは拡大する必要があります。
クリスマスはこれを実践する機会を提供します。モハメッド、メスバヒは彼のエッセイ「クリスマスとシステムと私」のなかで、お祝いと不必要なプレゼントに無駄に費やされるすべてのお金がもし共同で貯蓄され、それを緊急に必要とするすべての人々に再分配されるなら、なにが成し遂げられるかを想像するよう力説しています。もし今日イエスが私たちの面前に現れたなら、確実に、彼はそうするよう私たちに呼びかけているだろうとメスバヒは記述しています。そして恐らくそれが、21世紀におけるクリスマスの真の意味を象徴することでしょう。
アダム・パーゾンズはシェア・ザ・ワールズ・リゾースィズ(STWR)の編集長である
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